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手抜き

 以前、ある教会の信徒さんから告げられた。「うちの牧師さんは、去年の同じ時期と全く同じ聖書箇所を選び、同じ説教題をました。中身もほぼ同じでした…」。とのこと。
 聖書日課では、クリスマスやイースターなどの祝祭日はともかく、他の主日では聖書箇所などが一年後に同じということは考えにくい。連続講解説教ではそのような事態になることはあり得ないのだから、この牧師は聖書箇所を自分で選んでいるのだろう。ここに自由に聖書箇所を選ぶことの危険性が付きまとう。
 それにしても、説教題まで同じにするとはー説教の中身も焼き直しだと想像されるのではないか。牧師として手抜きだと指摘されても文句は言えまい。このままでは牧師としての成長は見込めまい。残念だが。

 私などが経験の浅い先生たちに教えられることなどないが、それぞれに聖書の言葉に向き合い、黙想し、考え、悩む日々を送ってほしいと願う。というのも、勘違いされている先生も多いのだが礼拝における説教とは、聖書箇所の説明ではないのだ。説明でいいならばAIだとかチャットなんとかで十分できるし、そもそも教会も牧師も必要ないのだ。
具体的に言おう。
「一般的にはこのテキストはこう理解されている」
「注解書ではこのように解説されている」
それを踏まえたうえで
「でも本当にそうなのか?それだけなのか?もっと違う何かが読み取れるのではないか?」
「今、この時代、この状況下で、このみ言葉は何を問いかけているのだろうか?」
「神様はこのわたしに今、何を呼び掛けておられるのか?」

といったことについて、深く悩まされていただきたいのだ。そういう説教とはたとえ口下手であろうが、うまくまとまっていなかろうが、何かが伝わるものなのだ。
ある信徒さんが言われた言葉が今も胸に残る。
「先生、俺は牧師さんがスラスラとまるで暗記した台詞を読むような説教って何にも残らないんです。そうじゃなくて、話しながら逡巡されていたり、ためらいながら話されている姿に真実を感じるんですよね」
もちろん書いた原稿を、何度も読み返したり言葉に出して読んでみることも大事なことだ。だが、表面的な原稿を表面的に読み上げるだけでは、どんなに良い声質で話そうとも伝わるものはない。ぜひ聖書を疑って読むこと、己の存在を深く問われる読みをしていただきたい。

 私もこの仕事について27年。いまだに説教は悩みっぱなしだし、不安だらけのまま日曜日を迎えている。満足できる説教など書けたことは未だない。牧師でなくなるその日まで、そうやって歩んでいくのだろう。

(追記)私も同じ聖書箇所で同じ説教題で説教したことはあります。ただし6年という時間は過ぎてはいましたが…

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