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「泉に聴く」東山魁夷

本、届いた。「泉に聴く」東山魁夷 2021年26刷の文庫本。
ずっと、もう一度読みたいと思っていた。
遠い記憶のなか、教科書で読んだことと「泉に聴く」というタイトル、東山魁夷の文章、ということだけずっと残っていた。

教科書で読んだのは、こんなエッセイだったろうか?
「泉に聴く」というタイトルだけが深く印象に残り過ぎて、私の中に別のエッセイを構築してしまったのかな?

何に感銘を受けたのか。もう一度、それを確かめたかった。
泉に聴く、その国語の授業の断片。なぜ「聴く」なのか。先生は、それを解説してたように記憶する。先生が誰だったか、何歳の頃か、全く覚えていない。

でも、「泉に聴く」というタイトルと、その文章からの感銘、それだけは残り続けた。

心の泉に耳を澄ます。
ずっと、そのフレーズ? 言葉? 短文? が、事あるごとに心に巡った。
東山魁夷の絵画の静かな迫力を私は愛す。
その絵画は、心の泉からきていると、絵画展での感動のたびに思い出していた。

こういうエッセイだったのか……。
改めて読んで驚いた。
私の記憶から内容はほとんど消えて、タイトルと東山魁夷と「心の泉に耳を澄ます」だけが、ずっと残り廻っていたみたいだ。

心の泉の音に耳を澄ますと、それが道しるべになった場合が少なくない。

「泉に聴く」東山魁夷

エッセイの終わり近く。ここを記憶してたんだなぁ。

私は、この言葉に強く影響を受けてきた。
私は、私の心の泉からの言葉をいつも聴いている。それは、最近ではモノローグの形をとる。東山魁夷のような深淵さとは程遠いけれど。

アファンタジアの心の泉には、清浄な水のたたえられたビジュアルはないけど。でも、普段は静かだ。そして、ちゃんと泉なんだよね。

泉。井戸。
創作の源を、さまざまな方々が、そのように呼ぶ。

無意識、潜在意識、そんなものと同義か、繋がっている存在。汲めども尽きることのない井戸。魚を放流し豊かに育む方法、そういう方向性の創作論が私は大好きだ。

それ故に、ナタリー・ゴールドバーグや、ジュリア キャメロンの本は読んでいて嬉しくなる。これからも何度でも読む。あ、でも、彼女たちの本は、少しずつ読むのがオススメ。

読んで少し時間がたってから、遠い昔に読んだ「泉に聴く」の記憶がじわじわと脳裡に染み出してきてる。ああ、ほんとに、この文章だったらしい、と。



AIイラストはPixAIで生成。

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