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自分の眼に見えることしか書けないもの NeverSayGoodbyeあとがき

キャサリンの「自分の眼に見えるものしか書けないもの」というセリフがとても印象に残っていて、千秋楽を迎えた今も記憶の中で反芻している。

改めて考えさせられたのはふと見かけたツイートがきっかけで、そのツイートには「スペイン人の教授二人を連れてネバセイを観劇した。外の世界から見るとスペイン内戦はこう映っているのか、と非常に驚いていた」と書かれていた。批判的なトーンではなく純粋に驚き受け止めているようで、これを見たとき改めて、ハッとすると同時に妙に納得する気持ちになった。ネバセイで表現された描き方は、実際にスペインで表現されている歴史的解釈と随分違うのかな、と。

私はスペイン内戦のことはどなたかがまとめてくれてるのをサラッと読んだくらいで、それ故私はこう思う!と主張するには至らないのだけど…。

過去の出来事、特に内戦や戦争となれば、歴史的背景や誰かに都合よく解釈された言い分など…全てがあらゆる角度から伝えられる可能性があるはずだ。

ネバセイは、スペイン内戦に関してその中の一つの角度を提示しているんだな、と理解した。

私も戦うと銃を取るキャサリン。政治的思惑を持ちつつ民衆をまとめたかったアギラール。カメラを置いて戦いに向かうジョルジュ。

どの人物の考えにも心を重ねられず、感情移入ができなかったという点がある意味新鮮だったネバーセイグッバイ。

初見時はカメラを置いて銃を持つジョルジュの決断に強く違和感を覚えた。それが本当にデラシネじゃなくなることなのかと。ジョルジュの求めた本質なのかと。

観劇を重ねるうちに、キャサリンの言葉を思い出すようになった。

自分の眼に見えることしか書けないもの。

人はその時代に自分の目で見た物事から生きる道を決断していく。現代日本で暮らし、温かいふとんで眠り、命の危機に怯える事なく平和的に暮らす私に、ジョルジュの見たものを重ねるのはきっと無理だ。ジョルジュの見たものは私の想像できる範囲を間違いなく超えている。

ジョルジュの決断を理解できるかどうかが大切なんじゃない。ジョルジュは自分の見たものから決断していったんだという事実を受け止めよう。

オリンピアーダは俺たちはカマラーダだと肩を組み、ジョルジュは銃を持った。
渦中の人物の思考変化の過程を見せ、こうして人は自分の生きる道を見出していくんだと、そんなことを教えてくれる作品であった。

自分の眼に見えることしかかけないもの。

キャサリンが序盤に、大切なことを言っている。どこをみて、何を重んじ、どう判断するか。それはいつも自分の責任のもと。真実…は自分で決めるしかない。

「何が真実で 何が嘘なのか」「自分たちの眼で 確かめるのだ」

わたしたちの生きてる今は、キャサリンの生きた時代より更に情報が飛び交っていて、生で見たもの以外の情報が圧倒的に多い。しかしこれもまた私達の“実際に目でみたもの”となり、そこから各々が真偽性、必要性を判断し、自分の考えとして発信したり考察したりしている。

凝り固まらず、自分の目でできるだけたくさん見て来たと言えるような道を生きたいと、キャサリンの言葉に思う。


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