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奈良県志都美神社にある遊廓の面影

奈良県志都美神社にある遊廓の面影

奈良県香芝市には、志都美神社という神社があります。平凡に読むと「しとみ」なのですが、関西あるあるでふつうには読まず、「しづみ」と読みます。「しとみ」と読むと、実は別に「志等美神社」があるというややこしい名前です。

伝武烈天皇陵の裏手にあり、それと何らかの関係があると思われる神社なのですが、由来など詳しいことはよくわかっていません。

奈良県香芝市の志都美神社

現存する本殿は江戸時代中期の建立と伝えられており、神社内にある奉燈には「宝暦六年」の文字があったので、1756年にはこの神社があったと考えられます。
宝暦年間は、18世紀中盤、ちょうど「暴れん坊将軍」こと8代将軍徳川吉宗が亡くなった時期(宝暦元年)であり、伊能忠敬や「鬼平」こと火付盗賊改方長官の長谷川平蔵がまだ11歳の頃です。というか、この二人って同い年だったのか。

また、本殿の裏には、

「明治十二年八月虎列拉病流行氏子祈願無一人患者無人歓呼奉納」

という記念碑があります。

「虎列拉病」とはコレラのこと。コレラが日本に初上陸したのは、江戸時代の文政五年(1822)とされていますが、安政五年(1858)の際は大流行で、江戸だけで26万人が死亡したと伝えられています。治療法が全然わからなかったのと、ちょうど欧米列強の黒船が相次いだ時期も重なり、大パニックになったそうです。

幕末のコレラ大流行はいったん収まったものの、明治に入っても地震の余震のようにコレラは全国で猛威をふるい、多数の死者を発生させました。
神社の記念碑にある明治12年4月、愛媛県の発生地の住民が、事もあろうに別府に湯治に出かけたのがきっかけでコレラが大流行。7月には患者が全国規模になり、結果的に患者数16万2637人、10万5786人が死亡するという大惨事に。死亡率は65%…お祈りぶっちゃけ新型コロナより恐ろしい。

このコレラ大流行は、たった3ヶ月で全国規模に広がり、奈良県も例外ではありませんでした。が、この地域では一人も患者が一人も出えへんかったようです。それを「御祭神のご利益や」と記念碑を建てたという由来です。
ちなみに、この明治12年の大流行で懲りた日本政府さん、「虎列刺(コレラ)病予防仮規則」を発布し国をあげて防疫対策に乗り始めましたが、日本のコレラの猛威は明治期にはずっと続き、大正中期に神戸で発生したもの(死者3,417人)を最後に、やっと沈静化しました。

で、この、どこにでもある神社のどこに、遊郭の面影があるというのでしょうか?
もしかして、ここあたりに隠れ色街でもあったのか?

意外に広いこの神社の境内の片隅に、こんな一角があります。ここには、お稲荷さんこと稲荷神社が2つ鎮座しております。

奈良県香芝市の志都美神社の中にある稲荷神社

何の変哲もないお稲荷さんなのですが…

志都美神社の中にある松島遊郭奉納の橙

デカデカと、「大阪松島廓」と。松島遊廓が献納した奉燈です。

遊廓とお稲荷さんとは密接な関係があります。
遊郭とお稲荷さん…何の関係があるのか。お稲荷さんは商売繁盛の神様もつかさどっていることから、廓の繁盛、もしくは自分が稼いで早く抜けようということがあるかもしれません。
が、聞いた話ではありますが、稲荷神社は「性病除け」にもご利益があるということ。実際、東京羽田の穴守稲荷は「穴」を「守」るということで江戸時代から性病除け神社とされているし、他もご利益に「性病快癒」がしれっと入っているお稲荷さんもあります。

遊里史を調べてみると、「遊郭とくればお稲荷さん」というくらい、遊里跡には大小問わず稲荷社があることが多いのですが、「性病除け」または「快癒祈願」なら、そりゃ遊女たちは必死に祈るわなと。
なお、松島廓が奉納したと思われるお稲荷さんは、宇賀ノ御霊(ウカノミタマ)を祀る稲荷大神。ウカノミタマはお稲荷さんの商売繁盛のご利益の大元。この碑も松島の楼主たちが商売繁盛を祈願して奉納したものでしょう。

さて、これはいつ寄進されたものなのだろうか?

大正元年六月建之
松村清吉

という文字を見ることができます。
ほぼ100年経った割には風化が少なく保存状態が良い奉燈本体に対して、ちょっと風化が進んでます。

大正元年の松島遊廓の事情を数字で見てみると、

貸座敷数:289軒
娼妓数:3923人
遊客数:1,238,497人
消費金額:1,687,492円

『大阪市統計書』大正元年より

これから数年後に第一次世界大戦が始まり、日本は「戦争バブル」の好景気を謳歌する時期に入ります。

で、ここで謎が一つ出てきます。

なんで、大阪府やなくて奈良県の、何の関係もなさそうな神社に、松島遊廓の奉燈があるのか?
戦前の松島廓には、お稲荷さんやなくて天満宮があったのですが、ここで作るなら遊廓内に作ればいいのに。
ちなみに、松島遊廓自体は戦災できれいさっぱり焼失、いや「消失」してしまったのですが、満宮は規模が小さくなったものの現存しています。

碑が松村清吉なる人物個人が奉納したとなると、仮説ながら彼はこの香芝あたりの出身で、妓楼の楼主。彼が商売繁盛を願って、故郷の神社に小さなお稲荷さんを建立したと。証拠はなし。100%不純物なしの脳内妄想です(笑
ただ事実は、この神社に「松島廓」の名前が彫られた奉燈があること。

由来を神社の宮司さんにでも聞けばよかったのですが、何せ散策したのが朝の7時。さすがに朝が早すぎたので、お賽銭箱にお金を入れて旅の安全をお祈りし、静かに去りました。

松島遊郭のブログはこちら!(外部リンク)


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