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『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』を読んでみた

 一般社団法人ホワイトハンズ代表理事の坂爪真吾氏の企画『シン・これからの「フェミニズム」を考える白熱討論会(#シンこれフェミ)』を聴講するために、ゲストの高橋幸氏の『フェミニズムはもういらない、と彼女は言うけれど』を拝読したので、ポイントをざざっとメモしておきたい。

 本書では、英語圏における1990年代のフェミニズムが社会的な役割を終えたという「ポストフェミニズム」を概観しつつ、フェミニズムへの外からの「行き過ぎている」「常に怒っていてラディカルである」などといったまなざしに着目し、「男女差別がなくなった」という考え方だけでなく、「消極的なフェミニズム離れ」が起こったと分析。フェミニストの描かれ方としてレニー・ゼルウィガー主演の映画『ブリジット・ジョーンズの日記』の「女性らしさ」「かわいらしさ」が、「女性性」や「性別役割分業」の強化に繋がっている事例だといい、2010年代のTumblrにおける「#WomrmAgainstFeminism」(フェミニストはいらない)を女性自身によるポストフェミニストの潮流として事細かに見ている。

 また、日本においては2003~2008年までの月刊ファッション誌『CanCam』の「めちゃ♥モテ」ブームについてピックアップし、恋愛における性別役割の規範的な役割を果たしたことを「女らしさの再編成」とやや批判的に(といっても十分に抑制的に)論考しているほか、草食系男子について性的な関心がなくなったのではなく「女性の意向への配慮」を重視しているとする一方で、女性における「性行動のイニシアティブは男性が取るもの」という役割期待の高さとのギャップを「最初の一歩が踏み出せない若者たち」と見ている。

 個人的になるほどな~と思ったのは、あとがきで高橋氏が以下のように綴っていること。

 私は大学の学部生から修士課程在学時にバックラッシュを経験し、「ジェンダー」や「フェミニズム」という語を口にするこおの恐怖感を経験した。大学の生協書籍部に、フェミニズムをバッシングする論壇誌と、「モテ」の語がでかでかと載った『CanCam』とが並ぶのを見て、「この世は私にとって生きづらい」と思ったことを覚えている。

 高橋氏は2006年にお茶の水女子大学文教育学部人間社会科学科卒業しているが、この年はちょうど『バックラッシュ! なぜジェンダーフリーは叩かれたのか?』が刊行された時期と重なる。

 保守系の論壇誌における言説だけでなく、ブログ(特にはてなダイアリー)でのミソジニーを垣間見えるエントリーまで遡上に乗せていて、当時ブログ黎明期の片隅でちまちま更新していた自分にとっては「ふえっ!?」という内容だったのだけど、女性が「自由に女性嫌悪を示せるネット環境」に脅威に感じる心情に至るプロセスに関しては注目に値するだろう。

 一方で、2005~8年くらいのブロゴスフィアにおいては、「草食系男子」と見られていた男性たちが「非モテ」と自認して、大きなトピックの一つだったという流れがある。これもある意味では『CanCam』の「モテ」に対するアンチテーゼだったと捉えることができるし、例えば『草食系男子の恋愛学』の著者の森岡正博氏は、取材に対して「この本の念頭にあったのは非モテ」だったと述べたことがある。つまり、「モテ」は一定の女性にも、一定の男性も圧力として機能していたと見るのがより実情に沿っているように思える。

 もうひとつ。2000年代のフェミニズムに関しては、LGBTQに対してのスタンスにより数々の対立があり、それがしばしば可視化されていたという点も見逃せないが、これについては坂爪氏の『「許せない」がやめられない』が詳しい。なので、高橋氏が「分割して統治される」危機感を抱くのは至極当然だとも思うし、フェミニズムに対する外側のまなざしへの関心を向けているのも、「このままだとヤバい」という意識の現れのように感じる。多少事実認識の違いが散見されたにせよ、社会学的なアプローチとしても誠実で好感が持てた。


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