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【 ……tsuki 】


「桜までもたないかもしれないな」
 珍しく弱気な言葉を口にすると、智樹は少し咳き込んだ。
トイプードルのムクが心配するかのように首を傾げている。
「やあね、去年も同じことを言ってたわよ」
 紗由美はうまく笑えたなと自分でも驚いた。歳月とはそんなものなのかもしれない。

桜の季節には賑わう公園である。
だが正月に訪れる人は、ほとんどいない。
葉をすっかり落とし切った桜は、刀を持たない弱腰の侍のように見える。
智樹が幹や枝に触れながら、ゆっくりと足を運んでいく。次の桜、またその次の桜にも同じように智樹は手を伸ばす。
何かに似ているな、紗由美は思った。


「一番ざくらが咲くのは満月の日だそうだ」
 不意に智樹が空を見上げた。
「一番ざくら?」
 つられて紗由美も顔を上げる。

 先ほど五時の鐘が鳴っていた。一気に夜に向かう時刻ではあるが、月の姿はない。

「桜の木の中で一番最初に開く花のことだ。どうやら満月に誘われるらしい」
 智樹の張りのある声は以前と変わっていない。呼ばれたとでも思ったのか、ムクが智樹の足もとにまとわりついている。
「最初に開く花なんて誰も気がつかないわ」
 紗由美はムクを抱き上げてから、あっと小さく声を出した。
そうだ。智樹が大学病院に入院していたときの教授回診にそっくりなのだ。
くすっと小さく笑ったつもりだったが、気がつくと智樹とムクが、きょとんとした顔をして自分を見ている。
思わず吹き出した紗由美の笑い声が、薄暗い公園に響いた。

 智樹は肺の癌を患っている。
 九つ年上のせいか、智樹は決して弱音や愚痴を吐かない。あと一年と余命を宣告されたときも、抗癌剤の効果が全くなかったときも、絶望して泣き崩れたのは紗由美の方だった。

 智樹は自分の亡き後のこと、財産のことなど細かく指示を出した。
民俗学の教授というポストを退き、自宅で書きかけの論文に没頭した。ムクを迎え入れたのもこの頃だ。子どものいない紗由美に忘れ形見でも残そうとしているかのようだった。
 まもなく紗由美は木塚のもとで働き始めた。木塚は智樹の強い後押しで教授のポストを引き継いだ男で、紗由美と同じ四十三歳だった。こんなときに仕事なんてと紗由美は拒んだが、智樹が強引に話を決めてきた。
「大変でしょうけど……」
 がんばっての言葉の代わりに差し出された木塚の手は柔らかく暖かで、健康そのものに思えた。
 告知をうけてから、もう二年が過ぎた。大学病院を離れ、個人の小さな病院に移ったことが転機となった。免疫細胞療法という副作用もなく入院する必要もない魔法のような治療法が、切れそうだった智樹の命をつなぎ止めた。


 三月も半分が過ぎた。
 紗由美は出勤のため身支度をしている。最近、紗由美は鏡に向かう時間が長くなった。仕上げの口紅を塗り終わると、「今日は水曜日だから」と鏡の中の夫に言った。
 水曜は残業の日だ。来週から木塚は一年間日本を離れる。その準備のため半年前から週一回、紗由美も居残るようになった。それも最初の三カ月くらいの話で、あとは定時に仕事を終え、二人だけで食事をしたり、ときには映画を見たりした。
 いつもと同じように先に職場を出て、
駅の本屋で木塚を待った。
 一年も会わずにいられるだろうか。
頭より先に胸の方へ熱いものが込み上げてくる。今夜は自分の方からあの柔らかい手を取ってしまうかもしれない。
 携帯が鳴った。木塚だ。
 今し方、不意に智樹が現れ、会話の途中で倒れたことを告げられた。救急車を呼んでいるという。その最中、「ムクを大事に可愛がってくれ」と、その言葉だけ、聞き取れたらしい。
 木塚の声は、とても遠く、他人の声だった。

 病院の前でタクシーを降りた。
 どこに向かえば良いのかわからないまま、とにかく智樹のもとへと走る。
 風が肌に突き刺さる。建物に入る直前、目の端で小さな白い何かが揺れた。確か桜の木だ。
 一番ざくら……智樹の言葉が蘇った。
満月の日に花が開くと言っていた。
 ……智樹も遠い場所へと誘われてしまったのか…
 
 つき……月は満ちているのだろうか…
 紗由美は空を見上げることができなかった。