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14 白川社宅 =「転向」 ・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな

「社会の進歩は女性の社会的地位によって測ることができる。」マルクス

この辺の事情は、当時、幼児には分かる術もなかったのだが、荒尾の炭住から大牟田の一軒家の共同社宅に引っ越した。ただの引っ越しではなかった・・

白川社宅は、一軒家を会社が借り上げて、4家族で住んでいた。

ずっと後になって分かったのだが、巧の父親健一は、第1組合から、会社が組合潰しのためにでっち上げた第2組合に「転向」した、いや、母に「転向」させられていたのだった。あるいは、第2組合設立、つまり、第1組合分裂過程の渦中だったのかもしれない。たぶん、後者だと思う。
第1組合員を管理職が飲み屋に誘ったりして、飴と鞭で脅しすかし、あらゆる手段を使って資本は労働者を骨抜きにしようとする。

母親俊子にとって、会社の人間関係の延長上にある「炭住」生活に、嫌悪感が極限に達していた。
自分の妊娠中絶の繰返しと、子宮外妊娠の大手術、ひとりっ子巧の肺炎ということも大きな理由だった。そんな個人的な事情も許容されない程の労働運動、三池炭婦協からの強制動員は、叫び出したい程、拒否反応を示していた。母親俊子にとって限界ギリギリだった。三池炭婦協は、解放区と化した炭住を闊歩していた。

それに反して、父親健一は、相変わらず第1組合の「活動家」気取りがエスカレートしていた。
正義感が人一倍強かったのでないことだけは確かだが、「炭住」からの引っ越し、即、第2組合(=会社側)への「転向」に強く反撥した。
父親健一は、「活動家」として、「社会主義者」として確信を持っていたわけではなかった。ただ、周囲の雰囲気に巻き込まれやすかった。自分が「活動家」であることは、当時多数派であった第1組合の中では、ある種のステータスでもあり、ファッションでもあった。向坂学校での学習もあり、「社会主義」理論からも「転向」は自分に許せない最後の一線だったのだろう。なによりも、かっこ悪かった。

夫婦の会話と雖も、隣近所に筒抜けな「炭住」の住まいで大声をあげて争うことはできなかったが、時にはヒソヒソ話しで、時には声を荒げて、母親俊子は健一に嘆願し、時には泣きすがり、一人息子巧の大病も引き合いに出した。退けない一線だった。
母親俊子は健一の実家の義理の両親も味方につけた。
こどもの遊びとはいえ、デモごっこしたり、労働歌、インターナショナルまで口ずさんだりしていることまで言いつけた。それには、流石の義理の両親も眉をしかめた。父親健一の実家は、熊本の農家に典型的な「保守」の家だったので、内心、長男健一の左傾化を危惧していたのだった。
 一族総出で、息子まで引き合いに出されては、それには流石の健一も逆らえず、結局、折れた。
健一の意にまったく沿わない「転向」だった。健一のこころにあったのは、思想的「転向」ではなく、社会主義の向坂学校の自他共に認めると自称する「優等生」としての面子とかっこ悪さだった。
この夫婦の溝は、小さくはなかった。息子巧の人生にとっても・・。

白川社宅への引っ越しは、つまり、「転向」を意味していた。
「炭住」からの「脱出」先だった。母親俊子にとっては、労働運動、三池炭婦協からの「解放」だった。
当初、俊子は喜々として、同じ屋根の下の家族と親しくし、一緒に袋貼りの内職をしたり、大牟田での編機の仕事に一人息子の巧を連れて出掛けていったりした。
俊子たち三人家族の部屋は二階だったが、一階の藤田さんの部屋に集まって、大牟田の松屋デパートの包装紙の束をテーブルの上に置いて、数人の奥さんたちが袋貼りの内職をしていた。巧も、母親の傍に連れて行かれたので、巧は、今でも、その糊の匂いと包装紙の束の匂いをしっかり覚えている。
奥さんたちの交流の場ともなり、互いに親しくなっていった。
時には、沢山の葡萄をみんなで買って来て、葡萄酒を仕込んだ。その甘酸っぱい匂いを、巧ははっきりと覚えている。できたら飲ませてくれるものと思い込んでいたが、結局、一度も飲ませてもらえなかった。

母親俊子は、女学校卒業後、大牟田の文化服装学院を出ていた。
大牟田での編機の仕事場は狭かった。いつも、巧は母親の編機の傍で遊んだ。当然、母親が動かしている手の動きも、編機の動き・シャーシャーという音もしっかり記憶している。幼児らしい遊びの内容も記憶している。編機を大きな「建物」と見なして、そこで、いろんなドラマを空想した。巧にとって、「編機」は、「敵の基地」であり、巨大な構造物だった。
仕事場への往復は、母に手を引かれての歩きだった。それが、巧には、たのしかった。

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