17. 50~60年代の大牟田・・・#実験小説 #あまりにもあいまいな

    「今では もう 彼は何一つ好きなものを 持っていません。」
                    『形像詩集』リルケ

その後、幼稚園に通う前頃までの記憶が残っている。

ずーっと遙か後になって、数十年ぶりに「大牟田」の街を歩いたことがある。
表面的に小綺麗になったが、まったく活気がない、死んだ街と化していた。善し悪しは別として、50~60年代「総資本対総労働の戦場」だった頃の大牟田の方が好きだ。活気があった。エネルギが渦巻いていた。人がピリピリしていた。

父も、少し静かになっていたのかもしれない。この辺の事情は、よく知らないが。

母と父と三人で、よく映画館に通った。母の工夫なのかもしれないが、父を少しでも家庭に戻そうとする試みの一つだったのかもしれない。確か「富士館」という名前だった。大牟田の繁華街の中にあって、帰りに「素うどん」をよく食べた。そのうどん屋さん、テーブル、うどんの味までよく覚えている。

映画は、日本映画ばかりだった。赤木圭一郎とか、市川雷蔵とかの、ヤクザもの、時代劇とかだった。「楢山節考」を見て泣いたのを覚えている。そのことを、母が、自分の両親に微笑みながら話していた。

「松屋デパート」というのがあって、屋上に小さな遊園地があって、グルグル回る飛行機に乗せてもらったのをよく覚えている。

夜の街路樹通りで、父の知り合いのおじさんに、炒った「椎の実」を一袋買ってもらった。リアカーに引いて、焼き芋屋さんのようにして売っていた。何故か、鮮明に記憶に残っている。無性に美味しかった。その光景が、古いフランス映画のようで、巧の記憶の中では、とても美しい。

大牟田のバス通り沿いに、父方の親戚が歯医者さんをやっていた。その叔父さんも叔母さんも、顔も服装も話し方もしっかり記憶している。そこに何回か行ったのを覚えている。虫歯を取ってもらったが、料金を取らなかった。その、母とのやりとりを何故か記憶している。
その歯医者さんが趣味で陶芸をやっており、作品を父母にあげるというのを、執拗に断っていた父母を記憶している。貰えばいいのに、なぜ断るんだろうと不思議だった。歯医者さんも、貰ってくれた方が喜ぶだろうに、と。

50~60年代の大牟田は、いろんな人がウヨウヨしていた。パチンコ屋の音、スピーカからの流行歌、客引きの大きな声、ケンカする男達のどなり声、よっぱらい、裏通りの歓楽街、濃い化粧の女たち、ヤクザ、党派らしき学生たち、活動家たち・・・渾沌としていた。
大牟田の白川よりのところに、野菜市場があった。「選果場」と言うのだろうか。親戚の農家が、軽トラで野菜を市場出しに来ていて、よく行って残り野菜を貰っていた。西瓜を食べた記憶がある。雑踏で、渾沌としていたが、活気があった。

多分、父の周囲は、「第2組合=会社側」になっていた。父の「第1組合」からの逃亡・離脱の「負い目」から目を逸らすのに、母は母なりに工夫し、「映画館」は効果を奏したのかもしれない。一時的ではあれ。嵐の中の静けさ、よき時代と言えば、よき時代であった。家族らしいひとときだった。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?