タイピングで文字を打てる悦び(過食について)

スマホでフリック入力ができない私は、一文字一文字あかさたなを連打して打っているのだが、スマホの電波が悪いと全然文字が打てない。それはフリック入力であってもそうだと思うけど、最近、スマホの入力が悪くて、イライラするのを自覚するようになってきた。それに比べて、タイピングで文字を入力する悦びって他ならない。

今日何をタイピングしようかなと思う。書きかけの小説とかいよいよ継ぎ足さないとイデアが霧散してしまう気がする。今日もやらないし明日もやらないとして。今日は風呂掃除とトイレ掃除と洗面所掃除をやって、スペースというラジオをやった。それだけで大仕事なのに、noteがあるから気が休まらなかった。

ラジオの中で、お笑いライブに出たこととか桜桃忌にちなんでワンピース心中の話などをしたけど、ネタ帳に今日喋るべきことは控えてあるため、それをnoteに書き起こして今日の更新を済ませるということにしようかな、と思ったけど、なんとなくやめた。言葉としてアーカイブ化してほしくないから、というのが第一理由です。聴き返してみると序盤は言語化の脳野がまだ眠ってるままのような感じが顕わになっていて、聞き苦しかろうなと思った。だけどまあまあ人気あるコンテンツだから週一でやってるし、多分評判的に週一では足りないらしい。ネタを作るというか、ラジオで言う構成作家みたいなことも(仰々しく言えば)やってるので、ネタがなさすぎて困る。一週間は蓄積しないとラジオとして1時間が成立しない。横浜流星のファンとして有名なめりぴょんは質問箱に答えるという名目でツイキャスをやっていたりしたけど、めりぴょんってなんであんなに質問来るんですかね。私が思うのは、めりぴょんの父親が一生懸命質問箱職人してんのかな?って思いましたけどね(めりぴょんの親は宗教家だし毒親らしい)、質問箱を貯めてツイキャスで発散するってのは、さもしいインターネットのやり方だなあと思ってしまう。めりぴょんみたいに質問箱の投稿が過剰ならまだしも。

だから、なんでスペースの話をしているのかと言うと、最後に触れた「過食」について思うところがあるという話をしようと思っていたからです。スペース内では生煮えのまま結論を提出したけど、もうちょっと細部を濾して凝縮させた「テーゼ」として昇華できないかなと思っている。

なぜ過食をするのかというと、まず「自我が多い」からだと思う。過食について検索して最初にありつける病院のサイトでは「自我がないから過食をする」と言っていたが、逆だ。心に何人もの自我があるから、その複数人の空腹を癒すために一人分以上の量の食事をする。なぜそれがよくないのかというと、いろんな自我のうち一人だけが身体としての負荷に耐えないといけない。身体のある「わたし」だけが、人権を持っていたり、人格として他の自我を統括する義務がある。

他の自我の「わたし」を身体を持つ「わたし」に従わせるために、精神科入院をしたり、服薬をする。その経緯で、他の「わたし」が身体を持つわたしにいやがらせをたくさんしてしまうことがある。その時、わたしは真剣に悩む。その姿はしんけんなひとりなのだ。わたしが他のわたしと、仲良く暮らすには、欲望があるならその欲望をかなえてあげることだ。しかし、欲望をかなえ続けていては、どのわたしも成長しない。わたしが成長していくためには、欲望をかなえつつ、来るべきタイミングを逃さず捕まえて、メキメキと成長していくことだと思う。成長というのは、毎日求めても降りかかってこない。あれよあれよと、「タイミング」がわたしを成長に沿わせて、わたしがわたしを変えていく覚悟さえ決めると、ワンステップ、ステップアップする。それから、ツーステップ、スリーステップ、とんとん拍子に人生というコツを心得る。

私にはそのタイミングはまだ来てないが、覚悟だけは決まったという現状である。

過食をしている実感として、食事を噛み締めている瞬間以上に生きてる心地は他では味わえないという側面がある。過食と過食以外の時間があり、過食している時はふつふつと生きていて、過食をしない時間、勤務中などはただただ眠い。そういう人生に失望する人もいるかもしれないけど、失望するのなら、そういう日常をやめるのも一つである。つまり、「ゲームチェンジャー」を意識することである。自分の日常において明日何をすればゲームチェンジャーになるか、試行錯誤してみるのも手である。

過食をする人は実のところ太ってないとMSD(家庭用医療サイト)では定義されていたし、思うのは、太ってる人は太ってるから太ってるだけで、1日に2000カロリー摂ろうが、体重は70キロなら70キロなのである。なんで人は太るのかというと、不健康だからであり、不健康なのはなぜかというと細胞の異常なのではないだろうか。

まあ、なんにせよ、太るというのは悲観すべきことではない。一時の現象なのである。人格として不備であるというわけではない。服は確かに人を選ぶが、脂肪はそもそも貯蓄であり贅沢な美なのだ。