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これからがんばります

 付き合っている女の子がいる。その子は僕と同じ年だが、留年した僕と違って働いている。とてもいい子で、僕が試験期間中パソコンにコーヒーをぶちまけてだめにした話をしたらへそくりの3万円をくれた。僕は新社会人がどれだけ大変かを知らず、時間を拘束されると引き換えに20万もらうことぐらいしか考えていない。だからパチンコで3万を簡単にスった。とてもすがすがしい時間だった。それを笑い話にしようとしたら彼女が泣いた。

 彼女が泣いたので、この後の展開に期待が持てない。セックスできないならばやる気がでないので僕はごめんなさいと言って足早に帰ることにした。オンボロのアパートの、軋む階段を降りて最後の一段を踏み外してしまった。おっとっと。あぶない。地に足がついている安心感を噛みしめながら、車道を横切ろうとした。するとおっかなくておおきなデコトラが僕に覆いかぶさった。
 僕の四肢はぶちぶちと切れ、脳みそが飛び散り、心臓は水風船のように破裂した。眼球に血が纏わりつき、そうでなくても辺りは一面血の海。僕の人生はシャットアウトされた。

しかし物語はまだ序盤なことからわかるように、僕はまだ生きていた。僕の四方八方に広がった残骸を僕の意識が見つめている。……頬には涙が伝い、某地方銀行の制服をいつの間にか身にまとっている。あ、これ僕の彼女じゃん、と気がついた。
彼女の家に戻った。鏡を見るとまごうことなく彼女の顔があった。ついでに服を脱いで見てみるとあのささやかな乳房があった。ムラムラしていたので彼女の体で一発自慰をかましてみて賢者タイムになったところでようやく焦ることができた。彼女になったからには、明日から働かなくてはならない。細かい自分語りは省きたいのだけど、僕はバイトが続いたことがなく就職活動もろくにしていない。つまり社会に向いていない。どうしようかともたもたしているといつの間にか寝ていてすぐに朝になってしまっていた。

 まず化粧。どうするんだろう。洗顔してみたら、眉毛がないのでこれではいけない。大奥の意地悪な女中を演じた小池栄子みたいな迫力がある。いざ眉を描こうとしたら思うようにいかず、よくよく見てみるとアイライナーだったことに気づくまで30分かかった。結果冷や汗でどろどろになった顔を晒して職場に向かったらやっぱり遅刻をしてしまった。2時間の遅刻は僕なんか平気だけど彼女側からすれば本当に珍しいことのようであり、同僚の人とか上司からとても心配された。大丈夫かと訊かれて、なんとなくごにょごにょと誤魔化したらさりげなく仕事を減らしてくれて。怒られると思っていたので安心した。そういえば彼女は職場のことを温かいと言っていた。確かにそうだった。
 
 仕事は減ったけれど、Excelもろくに使えない僕は仕事をなかなか進めることができない。少しでも質問すれば様子のおかしさがばれてしまうだろう。別に正直に言ってもいい。僕は彼女の彼氏なのだと。でもそう言ったところで信じてくれるだろうか。彼女の築き上げた信頼を損ねてしまうのではなかろうか。そんな堂々巡りで頭がいっぱいで、ろくに仕事もできなかった。

 昼休みになると、同僚に食事に誘われて急いでコンビニで何か買って済ませた。そこで僕は初めて気が付いたのだけど、彼女は正社員じゃないようだ。確かに、正社員らしきひとたちはみんな1000円する定食屋に行く。彼女の雇用形態を会社のシステムで見たらパートだった。そういえば確かに就職活動はうまくいっていないように言っていたけれど結局制服を着ているのを見てなんとかなったんだと思っていた。ついでに彼女の先月の給料明細を見たらたったの10万だった。そりゃあ3万スったら泣くだろう。

 昼休みから戻って、仕事を再開した。この常に緊張感が強いられる状態はなんなんだろうと思っていたら、よくよく考えてみるとこのついたての向こうに顔がいっぱい並んで、ついたてがあるとはいえ向かい合って仕事をするこの状態は異常だろと思った。常に監視されている。パノプティコンみたいだ。隣の人は舌打ちをするので、そのたび自分の所作を悔いてしまうし、何よりたまについたての向こうと目が合うと、その目に映る自分を意識せざるを得ない。
 しかも、過去20年間のデータを入力する内容の作業をやっているが、途中5年間のデータがない。自分でそのデータの埋め合わせをしなければならない。そこにやっと気づいた頃、上司がやってきて
「作業効率悪いね。ちょっと別の人にやってもらうから」と言われてしまったときのやるせなさったらない。彼女に申し訳ないことをしてしまったし、本当に社会に向いてない自分が悔しくてしかたなかった。

 5時半になり、帰ることになった。正社員の人の進捗を小耳にはさんだが彼らはあと4時間くらい働くらしい。残業代が出るだけならまだしも、給湯室で聞いた話だと日本の働き方改革によって残業を撲滅する流れをこの会社は汲んでいるようで、つまり残業すればするほど大事な大事なボーナスが減るしくみに最近変わったようだ。パートも稼げないので大変だが、稼ぐほうだと思っていた正社員も案外割に合わないだろう。そんな絶望の国に生まれたことがすごく驚きで自分はなんて幸福な人間だったのだろうと思い知った。もう死んだけど。その死すら生温いような感覚さえ抱く。

 激動だけども平坦な労働経験を初めて得たため、完全にそっちのけであったが、彼女の部屋でぼんやりしていた時にやっと「彼女の意識はどこにあるんだろう?」と至った。明日も労働するかと言われたら、しないように生きていきたい。それだけじゃない。彼女が人知れず消え去ることがあっていいわけがない。誰の命ひとつとっても、その命がなくなったら弔わなくては。僕は確かにパチンカスでくずだけど僕でさえそう思う。そう思うことができるのも、生きていればやがて守るべきものがあるのだと彼女が僕に教えてくれたからだ。

 自分語りは最小限にしておきたいが。僕はあらゆる倫理観が多分人より欠如している。例えばすべての感情は金で解決できると信じて疑わないし。だから失恋した友達に5千円を握らせたらそれ以降二度とその友人と会うことはなかった。そういうエピソードがいっぱいある。その為常に集団から浮いていた。小学校からずっと一人で歩いて帰っていたし、中学校の修学旅行の写真は一枚もカメラマンに撮られなかったし、高校までいつも一人で弁当を食っていた。大学に入るまで自分は誰にも必要とされることがないのだと思っていた。なんで生きているのか不思議だった。

 そんな中彼女が僕を見つけた。最初はなんとなく学食でよく見かけるなあ、ぐらいの風景のようなものだったのに彼女は僕に興味を示して気軽に話しかけてくれた。
僕は異性に興味を持たれたらそれはすなわち性的対象と見做されていると勘違いしていてそこで会話に齟齬が生まれた時もあった。「僕の童貞を狙っているのか」と一回口走ったことを僕は忘れない。そんな時彼女は「はあ?」と言っていたがあの時の困惑と侮蔑が入り混じったまなざしを僕は忘れない。僕にとって女の子という娯楽が彼女しかいなかったから、彼女のことが女の子だから好きなのか、それとも彼女だから好きなのか。未だに自信を持って回答できることができないけど。でもやっぱり彼女のことしか頭にない日が続いて彼女に会えない日はつらかったから、僕は思い切って告白した。そうしたら付き合ってくれることになって、なんやかんやで今に至る。そんなことを思い出した。

確かに彼女の姿は今ここにある。彼女の体をつよく抱きしめたとしても彼女はここにいない。こんなに広く大きな絶望の国でどうやって彼女を見つけ出すことができようか。僕はいたたまれず彼女の家を出て、軋んだ階段を降りて、そこで思った。ここでまた轢かれれば彼女に会えるのではないかと。車を待って、いざ飛び込もうとした。でも彼女の2番目に大事な資本である体を傷つけるわけにはいかなかった。彼女の戻るべき場所はここだからだ。
だとしたらどこに彼女はいるのだろう。血まみれの道路を見つめて、そういえば僕の死体はどこなのか気になった。僕は僕の名前をようやく検索することにした。
井上匡基、と検索する。めちゃくちゃサイトがヒットするじゃないか。ヤフーニュースで見ると、ひき逃げされたようである。死体もろとも、あのデコトラが持っていったんだとか。
僕はあのデコトラのナンバーを覚えているとかいうような運命を切り開く力はないので、うなだれた。っていうかあの死体が病院で復元されていない時点でもう僕は死んだのだろう。あーあ。南無三。
 
 その夜、夢をみた。彼女が出てきて、会社よくがんばったねとか明日はもう休んでいいとか言ってくれた。僕はどうしてか夢の中では声がでなくて、出そうと思っても喉からひゅうひゅう空気が漏れるだけで使い物にならなかった。みかねた彼女はうつむき、「じゃあね」と言うので僕は渾身の力を振り絞って
「なっちゃん、どこにいるの!」と叫んだ瞬間目が覚めた。夢とはわかっていたが、そもそもこの状況が夢であってほしかったけど、どちらにせよ好転はしなかったのでがっかりだった。でも、がっかりした途端
(まさきくん、こっちだよ)
と脳内でこだました。振り返るとそこにはいつの間にか開けられた窓、の向こうにあのデコトラが走っていた。風が吹いている。僕はたまらず部屋を飛び出した。

 あのデコトラはのろのろ走っていて、まるで僕をおびき寄せるようだった。すぐに見つけると、急発進して、遠くに行こうとしては、またのろのろ走り、途中で見失うと思えば、またデコトラは出現し。意味が解らない。僕は走った。女の体を忘れて、なっちゃんの寝間着姿でデコトラを追った。
 デコトラはさびれた街を走り、汚い運転をしていても周りはクラクションを鳴らすことなく受け入れられていたのが不思議だった。急に右に曲がると思えば、来た道を戻るような走り方はむちゃくちゃ腹が立った。返せ。返せ。俺の体と、なっちゃんを。
 何時間くらい走っただろうか。もう走れないと思ったそんな時、デコトラが止まった。傍らには廃業してずいぶん経った病院がそこにあった。
 
 病院に入ってみると、夏の真昼なのに真っ暗で涼しかった。満身創痍だった体がふと身軽になった。振り返るとなっちゃんの体が倒れていて、僕はようやく僕そのものになったのだと心得る。そういえば、なっちゃんの家は小さな整骨院だった。なっちゃんの両親はすぐになくなっていているため詳しくは聞けなかったからあんまりよくわからないけど、ここはそこなのかもしれない。
「なっちゃん」と呼びかけたが、何も起こらない。仕方がないのでもっと奥に進む。瓶詰がいっぱいある。ホルマリン漬けだろうか。やたら大きくてきらきらした何かがあるので、それを覗き込むとなっちゃんに似た人たちが漬けられていた。悲鳴を出そうにも声が出なかった。

 怖くて仕方ないけど、僕の死体を探すべく瓶詰の山の中を歩いていたら、どうも僕の皮膚とよく似た顔を発見した。……もしかしたらここになっちゃんがいると信じていた僕は話しかけた。
「なっちゃん」
 するとホルマリンの中の眼がこっちを向いた。僕は怯みそうな意識を整えて、立ち向かった。
「なっちゃん、いるの?」
(まさきくん、ここじゃないわ)
 後ろから声がしたので、振り返るとホルマリン漬けが割れて、誰かが出てきた。怖い。こんなのホラーじゃないか。
ホルマリン漬けは喋った。「井上、まさき君かね?」「はっ、はい……」「真田奈津子の父親の、真田街雄です……」
「と、としお、さん……」

 なんとなくしか聞いていないのだけど、なっちゃんのお父さんはくずである。お金もないのにろくに働かずに競馬やパチンコに行ってみんなから詰られていた人である。つまり僕とよく似ている。その代わりお母さんがよく働いて、なんとか切り盛りしていたけど、お父さんがあんまり良くない人とうっかり酒を飲んでからというもの、その筋の人たちしか整骨院に来なくなって、経営が悪化したんだとか。そんな話を聞いている。

「君。僕の話は聞いているかね」
「え。は。はい。すこぅし……」
「僕みたいなくず、なかなかいないだろう」
「いえ、そんなこと……」
「奈津子には、苦労を背負わせてしまった。結局今になっても借金をあの子が返す形になってしまったからねえ」
「えっ、そうなんですか……」
「やっと恋人ができたと思ったら、僕みたいなやつだって知った時は……なんていうかいたたまれない気持ちになったねえ。僕はもう死んだんだから、君のこととか常に見てるよう。3万円もらったら、そりゃパチンコするよね……」
「え、いや、あの! ……すみませんでした」
「これから君はどうしたい? 君の体を取り戻したい?」
「……奈津子さんに、会いたいです」
「なんてね。僕はどうすることもできないんだ。ただの死体だからねえ。でも君も一緒だ。肉体を持たずに、どうやって奈津子を救うことができる?」
「……質問に質問を返すようにはなってしまいますが、奈津子さんは何処に?」
「あの体の中にずっといたよう。君が四苦八苦している間ずっと何も言わずにそばにいたんだ。あの体が回復したら起きて家に帰ることだろう」
「そう、なんですね」
「ただ君が君の体を取り戻さない限りは奈津子に会うこともないだろう」
「……僕、なんて。死んだも同然のような日々を長く過ごしていましたけど」
「ふーん。そうなの」
「でも、僕は。あの、そうですね。奈津子さんのためにこれからを生きていきたいです……」
「借金。あと500万あるよ」
「がんばります」
「真面目に働くことなんて、僕ですらできなかったよ。君にはできるっていうのかい」
「……全力を尽くします」
「指輪はちゃんと買ってあげなよ、じゃあね」
「……はい。え?」

 気が付くと、病院にいた。マスクがつけられていて、たくさんの線が僕に繋げられていて、すぐそばには奈津子が泣いていた。僕はまだ生きていた。