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よむラジオ耕耕 #09 『デザイン会社にラッパー採用』

半年後に届いた採用通知


加藤:こんにちは、こんばんは、パークギャラリー の加藤 淳也です。

星野:こんにちは、こんばんは、PUNIO の星野 蒼天(そら)です。今週もお便りが届いてます。

加藤さんのデザイン会社時代の話がもう少し聞きたいです。今につながる学びや、人生の分岐点などあったのでしょうか。

東京都在住 匿名希望 20代

加藤:なるほど。今まで、このラジオでも、写真家の『マネジメント会社』と『デザイン会社』の2社で働いていたことを話して来たけれど、マネジメントの方のエピソードは結構話している気がするので、今日は改めてデザイン会社で働いてた3年間を振り返ってみようかなと思います。-

加藤の前職の詳しい話はこちらに👇

よむラジオ耕耕#03『こんな僕でも社会人になりました』
https://note.com/park_diary/n/n0654dae7ac1c

よむラジオ耕耕#04『MC 転校生、現る。』
https://note.com/park_diary/n/n882d81e3c86f

星野:デザイン会社はどんな会社だったんですか?

加藤:今は社名が変わっているんだけど ANSWR(アンサー)というデザイン会社で、当時からいろいろなことをやってる、いわゆる制作会社だったね。自分たちでウェブメディアも運営して発信するし、 フリーペーパーや ZINE を作ったり。デザインを受注するクライアントワークをしながらも、いまは主流となってるオウンドメディアを実践していた気がする。常に時代の最先端を走ってるような社長兼アートディレクターがやってた会社だから、デザインだけでなくいろいろなことをやっていて、『デザイン会社』とは一言では言えない会社だったね。

星野:おもしろそう。

加藤:もともと写真家のマネジメントの会社にいて、だんだん営業職として現場を見ているうちに「管理する側じゃなく作る側の人間になりたい」と思うようになって ANSWR に転職するんだけど、実は普段からぼんやりとそういう気持ちはあって会社の就労時間以外は創作活動はしてたんだよね。普段から ZINE を作ったり、音楽をやったり、自分のラップユニットや友達のバンドのアルバムのジャケットを作ったり、みんなでワイワイやってたりしてね。独学でデザインや編集したり、文章を書いたり。SNS が出はじめたころだったから発表の場所もあったというか。

星野:仕事と趣味が一体化している感じですね。

加藤:そういえば⋯その時に仲間と一緒に作ったものを一式、履歴書と一緒に送った覚えがある。「こんなことができますよ」「アクティブでしょ」って。でもいま見れば僕の作ってた ZINE なんて素人のクオリティで。だからデザイナーなんかになれるわけもなく、なぜか返事が来たのは半年後くらい先で⋯。

当時、転職のあいだの生活費を稼ぐためにバイトしてたんだけど、そっちはそっちで順調で、ANSWR のことなんて忘れてた頃に求人担当から電話がかかってきて、「だいぶ時間経ってしまいましたがまだうち来る気ありますか?」って(笑)。急に会いに行くことになるんだよね。

星野:半年越しの合格通知ですね。なんでそんなに時間かかったんでしょう。

加藤:聞くと、どうやらその会社内で新しくマネジメントセクションを立ち上げることになったんだよね。要するにデザイン会社でありながら組織内に写真家、スタイリスト、イラストレーターをマネジメント契約として所属してもらって、自分たちの案件にアサインすることで効率的に所属してるアーティストやクリエイターにも仕事をわり振るというマネジメントのビジネススタイルをその時、社長が考えていた。

星野:なるほど。加藤さんはマネジメント会社に3年いましたもんね。

加藤:そう。そこで、過去の履歴書を掘り返していたら経験者の僕がいて、電話したという流れだと思う。デザイナーとしてもクリエイターとしても雇えないけど、マネジメントセクションの立ち上げには必要なんじゃないかと思ってもらえたんだろうね。

星野:つながるんですね。

加藤:とはいえ『立ち上げ前』だから、すぐにはマネジメントの仕事がない状態で。さっき話したオウンドメディアの編集やライターの手伝いをしながら、立ち上げの準備を一緒に進めていたかな。オウンドメディアと言っても当時好きで読んでたウェブマガジンだったから、そこで期間限定でも編集の仕事をさせてもらえたのは、うれしかったね。

星野:仲間と ZINE を作っていた経験が活きたんでしょうね。

加藤:確かに。少なからず任せてもいいかもと思ってくれたのかも。でもまぁすぐにマネジメントセクションがはじまったので ANSWR での最初の1年は別のマネジメント会社に転職したみたいなもんだったね。ただ『立ち上げスタッフ』だったというのもあって、以前よりもより濃い密度で関わらせてもらったと思う。

気づいたら上海(大変!)


星野:経験があったとはいえ立ち上げから関わるのは大変なことも多そうですね。

加藤:そうだね、かなり大変だった。ちょうど写真業界もフィルムからデジタルに移行するタイミングだったんだよね。そこで「デジタルでどう戦っていくか」みたいなことを写真家と一緒になってみんなで話し合って突き進んでいったり、出版業界もデジタル化していくタイミングだったから、会社の人もみんな大変だったと思うよ。ルールもまったく1から作らないといけない印象だったな。それに人手も足りてない状況で、僕もマネジメント業務をしながら、制作の現場に駆り出されて AD みたいなことしてた。ロケ先でデザイナーのアシスタントでパシリみたいな仕事をしながら、携帯が鳴るたびに対応して⋯忙しかったなぁ⋯。電話出ないと怒られるし。

星野:まったく違うジャンルの仕事ですしね。

加藤:僕も効率よくこなせる方じゃないから、制作のアシスタントに集中するとマネジメントがおろそかになったり、それで全体的にストレスを抱えたし、所属してるアーティストにも負担をかけてしまっていた気もする。唯一の息抜きだったプライベートの時間すらもパンクしちゃって。「俺は何をやりたかったんだっけ」と考えるといっぱいいっぱいになって全方位的に辛くなったりもしたね。だんだん自分の中でマネジメントには「向いていない」っていう感覚があってね、すぐにでも辞めたかった。そんな時にタイミング良くモチベーションが高いマネージャーが入社して、社長が僕のクリエイティブ側のバランス感覚をかってくれたこともあって、マネジメント業務をフェードアウトさせてディレクター的な役職につけてくれて。まぁでもマネジメント業界から逃げた感じもあるかも(笑)。好きな方はがんばれたというのが本音で。

星野:やりたかったのは制作ですものね。

加藤:そうそう。でも最初は、スタジオでの撮影用に飲み物を買ってくるとか、その日の資料を用意するとか、そういういわゆる「ものづくり」とは真逆の地道なところからはじまった。それをだんだん積み重ねて内部の事情がわかってくると、デザイナーさんにも意見できるようになってきて、気づいたらデザイナーの代わりにプレゼン資料を作ったりするようになって、いつの間にかクライアントとの橋渡し的存在みたいなことを任せてもらえるようになった。もちろんデザインのプロじゃないし、できないこととか迷惑かけてしまったこともあったけど、いつの間にか少しずつ大きな仕事を任せてもらえるようになったね。それこそ有名どころでいうと L'Arc~en~Ciel の仕事の担当を任せてもらったのは大きかった。それが縁となって音楽関係の仕事を多く任せてもらったりしたね。そうやっていろんなことをやらせてもらえるようになって、気づいたら上海で仕事してた(笑)

星野:気づいたら上海って、そんなことあります?(笑)

加藤:ある日、会社で仕事してたら「パスポート持ってるひと」て声がかかってさ、その時、ちょうど更新してて「持ってます」て言ったら「じゃあ加藤くん上海ね」って。で、しばらく上海に通ってたね。

星野:すごい突然ですね(笑)。上海では何をしてたんですか?

加藤:中国版のユニクロみたいなアパレル会社のカタログや CM の制作。通訳の人はいるけど、右も左もわからないし、規模は大きいし、通訳の人には専門用語は通じないから大変だったな。でもそこまで追い詰められるともうやらざるを得ないんだよ。おかしいとか言ってる場合はなくて、やることやらなくちゃいけないし、成果もださなきゃいけないから「できない」とか「わからない」とか言ってられない状況だった。

星野:なるほど⋯。

加藤:理解できないことがあったら理解しようとする。日本でやる仕事よりも質を落とすわけにはいかないから、交渉も提案も強気な姿勢で仕事にのぞんでた。だんだん何が好きかとか、どういうコミュニケーションを求めているか、コツを掴めるように。それでも文化的なマナーや価値観も全然違うから大変な時期は続いたけれど。

星野:そういう経験は成長できそうです。

加藤:そういう「よくわからない」とか「“ふつう” ならあり得ない」ような仕事も、笑いながらやってたし、その状況を社長もおおらかに受け入れてくれてたから、なんとかできたことだったんだろうね。マネジメント会社の時もそうだったけれど、環境に恵まれていたよ。運が良かった。

星野:どちらも社長がちゃんと気に入ってくれてますね。

加藤:どちらの社長も、ロジックで考えるよりもフィーリングで動くような、アツい気持ちで行動するタイプだから、気持ちはあるけど組織の一員としては欠落している僕みたいな人間も、優しく受け入れてくれたんだよね。加藤くんはできる時もあればできない時もあるっていう感じで、「失敗」を前提にシステムを設計してくれていたから、僕も思いきり行動できたし、いろいろ失敗しながらも3年間学ばせてもらった…というよりも、さまざまなことを「体験させてもらった」、その中で、どうせやるならと学んでいった、という方が表現として近いかな。『虎の穴に放り落としてくれた』ようなイメージ。社長とは修羅場をくぐった仲というか、不思議な関係が続いたなぁ。

星野:そんなに仲良くなることも珍しいですよね。

加藤:まぁ思えば年齢が近かったんだよね。普通社長と言ったら10、20歳上かもしれないけれど、その社長は僕の3、4歳上で。入社前は僕がずっとメディアで見ていた人だったから、デザイナーとして『憧れの人』って感じだったけれど、だんだんご飯行ったりしてるうちに親近感というか、社長がやりたいことを叶えるためにアイデアを出すことが楽しくなってきて。無茶を振られた時にうまく収めた時の「やったった感」が結構好きだったね。過酷な映像やスタジオの現場とかもみんなで2、3日徹夜して、なんとか案が通った時の感動を日々味わうことができたり、毎日「文化祭前夜」みたいだったねー。

星野:それは楽しそうです。

加藤:もちろん楽しいだけではできなかったし、怒られることもいっぱいあったけどね。遅刻もひとより多かったし、みんなが残業してる時に定時で上がって WEEKEND としてライブしに行ってたりしてたから当然なんだけど(笑)。

星野:ラッパーですものね。

加藤:そう。でもつまり元々ラッパー採用だったと思うんだよね。「ラッパーが会社にいるのおもしろいじゃん」ていうの理由で雇われたと思うんだよね。

星野:ラッパー採用(笑)。はじめて聞きました。

加藤:行く先々でラッパーとして紹介されて、いじられてた気がする。

星野:ラッパー採用って言ってしまうと「ゆるい」感じで採用された感じがするけれど、音楽やってるひと特有の自然体な姿だったり、楽しんで仕事をしている才能が加藤さんにはあって、それを見抜いてたのかもしれないですね。

加藤:うーんどうなんだろうね。でもそういったスキルはあの業界では誰しもが求められてる能力ではあったかもな。その上で逆境も「楽しむ」ことに関しては他の人よりあった方だとは思う。徹夜とか迫られるとワクワクしたし、ちょっとトラブルに巻き込まれた方が生き生きとしてたタイプではあったかな。その場の、無茶振りに対応することも苦ではなかったね。文句言いながら楽しんでた。

星野:きっとそれが才能だったんですよ。

加藤:当時の社長があの時の自分をどう評価してたのかわからないから、ここでの発言は一方的な意見になっちゃうけど、当時は辛い時もいっぱいあったけど、とにかく楽しかったな。

社長から学んだこと


星野:社長はどんなひとだったんですか?

加藤:損得勘定じゃなくて、自分たちのブランディングや好きなことのためにチームを作っていく人だね。そうそう、そういえば、スタッフが増えて会社が手狭になって、移転して少し大きな場所に引っ越すことになったんだけど、そのビルの打ち合わせスペースを社長がいきなりギャラリーにしたんだよね。

星野:へぇ。

加藤:みんなのデスクがあるオフィスの横に、通りに面した広いガラス張りの開放的なミーティングスペースがあって、そこをギャラリー兼ショップにすることで、ミーティングで訪れた人たちが自然とアートを鑑賞したりグッズを買っていく。アートに興味ないかもしれないけど、そこで打ち合わせをすることで作品に触れられる、という環境を作ってて。

星野:おもしろいですね。

加藤:アーティストとして表現したいクリエイターは社内にも関係者にもいっぱいいたし、会議室は毎日のように打ち合わせがあるから、例えばレコード会社の人とか、デザイナーとか、いろんな人が来るわけさ。そこで会議室の壁に作品が飾られていれば、その人の仕事につながったり、作品が売れたりしてギャラリーとして成り立っていくわけなんだよね。人通りも多かったから、扉を開けてるとふらっと人が寄ったりもできるしね。今思うと、そこの立ち上げを少し手伝ってたことが、今、ギャラリーをやる上で活きてきたりもすると思う。

星野:直接的にギャラリーのことを指導してもらったというよりも、一緒に仕事をするうちに自然にできるようになっていったんですかね。

加藤:そうだね。教えてもらったというよりは、手伝ったり先輩が作業をしているのを横で見てて「作品を飾るときは水平を取る」って、当たり前のことを知ったりしてた。あとは、パークもこの時のギャラリーの運営の仕組みや合理性、アイデアに影響を受けてることもたくさんあって。例えば、仕事の打ち合わせをパークの2階でやることも多いし、パークはエージェント契約はするつもりはないけど、マネジメント契約同等の信頼関係をクリエイターとギャラリーを通じて築いているから、仕事をすすめる時に効率的だったりね。それでいうと ANSWR での3年半くらいの経験はすごく大きかった。

星野:いまのパークの原型ですね。

加藤:その後、PARCO に『2.5D』ていうライブ配信スタジオを作ってバーチャルアイドルを育てたりとか、アニメの世界に力を注いだり、ホログラムを使った VJ とか、12年前にすでに形にしているんだよね。とにかく僕なんかじゃ追いつけないくらいの速度でカルチャーを感度良くどんどん吸収してビジネスにしてく人だったねー。

星野:目まぐるしく変わる流行の中で、新しいものを作り続けるってそのくらいひとりで推し進める力がないとできないですよね。

加藤:そうだね。近くにいながらもちょっと離れて見て思ったことだけど、少し攻撃的なまでに突き進んでたと思う。ただその激動の時代に、社長の横でその景色をいっしょに見れたのはめちゃくちゃおもしろかったね。もちろんそのやり方に反感を抱いていた人もたくさんいたと思うし、人の入れ替えも激しかったし、ぼくもそうだったけれど、会社全体もトライアンドエラーをくり返しながら大きくなっていったとは思うけどね。

*現在は THINKR という会社で、さまざまな業態の仕事をさまざまなチームと行なっています。

加藤:でも、そんなイケイケの時に、僕は結局 ANSWR をやめてフリーランスになるんだよね。ただそれは東日本大震災の影響が大きかった。会社が嫌になったわけでも仕事が嫌いだったわけでもなくて、その時、僕の中で大きくパラダイムシフトがあったから、個人的な理由で会社をやめただけで、正直な話、ずっと社長の横で仕事をしていたかった気持ちもあるけどね。まあ。今も関わりはあるし、このラジオも「楽しい」って言ってくれてるくらいにはつながっていると思う。

星野:その時のパラダイムシフトについてもまたいつか聞いてみたいです。

加藤:そうだね。まぁ今回は全体的に社長に媚びた回になったかもしれないけど、すべて本音なので(笑)。もっとこの3年間については話したいこともあるけど、今日はここら辺で終わります。ありがとうございました。

星野:ありがとうございました!

\ 今週の1曲 /

この曲は ANSWR が手がけたコンピレーションアルバムがきっかけで生まれた曲です。当時残業しながらずっと聞いてて、頭の中が夜な夜なローリングしていました。それもいい思い出です。


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