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窓際から今日も #05 | 記憶の彼方、東京の果て | 阿部朋未

都営三田線に乗り志村坂上駅から志村三丁目駅に差し掛かる時、地下を走っていた車両は突如として地上を出て、窓の外には土地の傾斜に沿って所狭しと立ち並ぶ家々の景色が広がる。その景色が続いた先に、私の住んでいた街がある。

今まで生きてきた中で "板橋" という街の名はもちろん耳にしたことはあるものの、おそらく他の街と同様「地図上に点在する東京の街のひとつ」との認識でしかなかった。

どこに位置しているのかも、何が有名だとかもまったく知ることもなく。しかし、いざそこに自分が住むとなると話は変わってくる。東京メトロ副都心線と有楽町線が走る『成増』だって板橋区だし、東部東上線を走る『大山』だって板橋区だし、三田線が走る『高島平』だって板橋区で、自分が想像していた以上に大きな街だった。なお、JR 埼京線が停まる『板橋駅』は厳密には北区に位置しているそうだ。

初めて上京して私が住むことになった『高島平』という街は三田線の始発・終着駅である西高島平駅の2駅前に位置しており、駅前にはかのマンモス団地としても有名な高島平団地がある。近隣には小さな商店街や個人商店、それから病院や図書館など学校施設もあり、まさしく家族向けのベッドタウンとして長年発展してきた街なんだと引っ越してきてすぐに理解した。

ただ、それが隆盛だったのはとうの昔だというのも同時に理解せざるを得ない話で、その証拠に団地も含めて街に建っている建物はどこか年季があり、閉店してそのまましばらく経つお店もあれば、歩いている人々も若い年代よりは高齢者が多い印象だった。朝、登校時に駅近くのパチンコ屋さんの前を通れば地面に散らばった吸い殻がそのままだったり、スーパー横のバス停には『戸田競艇場』へ向かう年配の男性達が列を成している日常風景。吉祥寺や清澄白河と同じ東京のはずなのになんとも言い難い侘しさを漂わせて、想像していたはずのキラキラした『シティーガール』にも程遠く「上京したとて何者にもなれないやるせなさ」をさらに助長させていった。

近所にスタバもなければ最寄りの TSUTAYA まで三田線で25分。Apple Music も Netflix もまだ存在していない時代で、近所のレンタルビデオショップ『ハリウッドムービーズ』で色褪せて角が少し破けたジャケットの DVD や CD を借り、その道すがらの古本屋で本を買う生活が徒歩圏内の数少ない娯楽だった。あとは YouTube やニコニコ動画、学校の資料室から貰ってきた古いバックナンバーの音楽雑誌、先述の TSUTAYA で借りてきたラーメンズと小林賢太郎演劇作品の DVD を観るという、狭い部屋の中だけで完結する毎日を、学生生活が終わるまで続けていた。備え付けの小さなテレビはテレ玉が映り、東京に住んでいるのに埼玉の地理と埼玉西武ライオンズと十万石まんじゅうにちょっとだけ詳しくなった。同じ学生寮に住んでいた友達曰く、埼玉には歩いて十数分で行けるという。

その言葉通り、ただ部屋に居るだけでは息苦しくなった時に足繁く通っていた荒川の土手の対岸は埼玉で、つまり東京と埼玉の境でいつも何も考えずぼんやりしていたことになる。土手にはサイクリングしたりランニングする人、河川敷には少年野球チームの元気な掛け声とボールのノック音が気持ち良く響き渡る。川の向こう側は埼玉だけれど、だからと言ってその向こう側で何かが劇的に変化している訳でもない。自分が今いる場所と地続きに伸びるその街の暮らしのことを思ってはすぐに別のことを考えていたりもした。一口噛んだ時からはっきりとした味のしない、そもそも味があるのかどうかもわからないまま噛み続けているガムのような日々。なんとか生活は続いているけれど、果たしてこの街での暮らしに未来はあるのだろうか。
結局この街への偏屈な思いを抱えたまま2年間の学生生活を終え、卒業式を終えたのと同時にひっそりと退寮した。見送ってくれた友達は誰もいなかった。帰郷した後に街のことを振り返ってもそこには苦い思い出しか存在せず、自分の中に残ったのは東京への中途半端な未練。もやもやとした思いを抱えながら、街は記憶の彼方へ遠ざかっていった。

それから時が経ち、2020年正月。
箱根駅伝の放送内で流れていたサッポロビールの CM ソングを耳にした瞬間に心が惹かれた。それは東京のポップバンド『スカート』の『駆ける』という曲で、以前からその名前は知っていたものの、当時はまだ「映画『PARKS』での井の頭公園のシーンで弾き語っていたあの大きな男の人のバンド」くらいの認識でしかなかった。後に楽曲はシングルとしてリリースされ、それをきっかけにどハマりし、世間がコロナによるパンデミックで鬱屈とした空気に包まれる中、通勤のお供として毎日のように聴いていたスカートの音楽が常にすぐ隣にいてくれていた。

そんなある日、いつものように Twitter を眺めていると激流にも似たタイムラインの中でボーカルの澤部さんのツイートが目に留まった。添付されているリンクのサムネイルには見慣れた駅のホームの景色。それは澤部さんが住宅情報サイトに寄稿したコラムで、自身が生まれ育った街のことを綴っていた。その街こそがあの高島平だった。しかもコラムをさらに読み進めてみると、時期は違えどなんとバイト先が一緒だったことまで判明し、私が引っ越してから約2年後に閉店したことを知ったのだった。個人の感傷や思い出など推し量る暇もなく、無情にさえ感じられるほど街は止まることなく変わっていく。ただでさえ距離が離れている上に卒業してから何年も経つのだから仕方ないとはいえ、それにしてもやはりどこかやるせない。それは澤部さんにとってはより思い入れが強いようで、その感傷をアルバム『20/20』に収録されている楽曲『さよなら!さよなら!』に押し付けたとコラムに綴っていた。まだ聴いたことがなかったので、急いで Spotify の検索欄にタイトルを入力して再生ボタンを押した。イントロが流れ出した途端、脳裏に映し出されたのは三田線が志村坂上を過ぎて地下から地上へ出る瞬間のあの景色。あぁ、私はずっとあの街が恋しかったんだ。ありもしない MV のように、高島平で過ごした景色がシーンの如く次々と浮かび上がっていく。できれば高島平に住んでいた時に、もっと早くスカートの音楽に出会いたかったとも思うけれど、きっと時間が経って少しは俯瞰的に見れるようになった今がそのタイミングだったのだろう。ミドルテンポで軽快なリズムとストリングスから成る明るい曲調の中、澤部さんが振り返っても戻れない景色へのノスタルジーを込めて歌うその歌詞の一字一句が私の中に残り続けた街の未練を優しく肯定してくれるようで、苦みしかない東京での生活の思い出からきれいに毒っ気が抜けた気さえした。多分、今なら会いに行けるかもしれない。

初めて開催した個展の休廊日。私は三田線神保町駅の西高島平行きのホームに立ち、あの頃背負っていたアコギの代わりに中判のフィルムカメラを肩からぶら下げて電車の到着を待っていた。ホームに滑り込んだ銀色の車両のボディには懐かしの青いライン。やぁ、久しぶりとマスクの下で小さく呟く。
各駅停車のため辿り着くまでの長い時間、通学していた学生時代を懐かしんでなぞるように当時聴いていた楽曲を再生した。しばらくして「次は、志村三丁目、志村三丁目」のアナウンスが聞こえてきて、イヤホンのボリュームを少し上げる。ひたすらに真っ暗な景色が続いていた車窓に突如として光が差し込んで、その眩さに思わず目を細めた。

その光の先に、私の住んでいた街がある。

阿部朋未


阿部朋未(アベトモミ)
1994年宮城県石巻市生まれ。尚美ミュージックカレッジ専門学校在学中にカメラを持ち始め、主にロックバンドやシンガーソングライターのライブ撮影を行う。同時期に写真店のワークショップで手にした"写ルンです"がきっかけで始めた、35mm・120mm フィルムを用いた日常のスナップ撮影をライフワークとしている。2019年には地元で開催された『Reborn Art Festival 2019』に「Ammy」名義として作品『1/143,701』を、2018年と2022年に宮城県塩竈市で開催された『塩竃フォトフェスティバル』に SGMA 写真部の一員として写真作品を発表している。
https://www.instagram.com/tm_amks
https://twitter.com/abtm08

先日開催されていた、阿部朋未・個展『ゆるやかな走馬灯』の図録は
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