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サムライベルト

高校のときの代数・幾何担当の先生には、隠れた愛称があった。確か「サムライ」とか「武士」とか、そんなのだったと思う。

定年退職もそう遠くない年代の男性で、とにかく痩せていた。中学校の社会科の資料集に載っていた即神仏みたいに。

あの世代の人にしては長身で、高さが足りない教壇に何十年も手をついているせいなのか、上半身はみごとな曲線を描いていた。黄金比スパイラルを、身をもって形成されていたのかもしれない。

さて、先生はいつも白っぽいシャツに紺色のニットのベストを重ね、グレーの背広を着て、細い革のベルトを締めていた。

オードリー・ヘップバーンなみに細いウエストに黒い細いベルトを巻き、ベルトの先は脇のベルトループから膝のあたりまで大きな弧を描く。

上着の裾を押し上げて後方にピンと伸びるしなやかな黒い曲線、それを見た高校生がサムライの刀を連想するのは、ごく自然なことだった。

ベルトが長すぎだったのは明らかだけれど、先生のウエストも細すぎである。押し売りにでも買わされたのか、それとも昔日の先生は恰幅の良い姿だったのか。

長年すっかり忘れていたサムライ先生のことを思い出したきっかけは、最近よく身につけているベルト。

彩度高めの紫色のスムースレザー製で、両面にていねいなステッチが施されていて、裏表がない。バックルもベルト穴もいたって控えめでシンプルで、まさに理想的なベルト。ただし、その長さが尋常じゃない。

最初に見たときには二重に巻くデザインだと思った。でもいざ二重にするとベルト穴がまったく使えないので、一重巻きのベルトである。ベルトの先がダランと膝下に届くのが正しい。おおお、これは楽しい!新しいオモチャを手に入れた気分だ。

派手な模様のキルティング地コートのウエストマークにしたり、あえて上品な白いワンピースに合わせてみたり、気づけば毎日のように身につけている。

ダラりと垂れたベルトの先が歩くたびに揺れる様子は、生き物のようにも見える。座るときには地面につかないようにそっとつまんで膝に載せる。尻尾のある動物というのは、こういう気持ちなのだろうか?ベルトを愛すべきかわいい存在だと感じるのは、生まれて初めてだ。

あのサムライ先生も、もしかしたらベルトに対してある種の愛着を持っていたのかもしれない。

押し売りに無理矢理に買わされたわけでもなく、ズボラで昔の体格用のサイズを使い続けているわけでもなく、もしかしたら恋人からの贈り物だったとか、親から譲り受けた形見だとか、または初任給で買った思い出のベルトだったのかもしれない。物静かで雑談というものをまったくせずに淡々と授業をする教師だったので、どういう生き方の人だったのかがわからない。

体に沿うどころか、意思ある生物のごとく独立したベルトを敢えて身につけ続けたサムライ先生、実はかなりパンクな人だったのではと思い直している。ちょっとお話ししてみたかったな。なのに先生のお名前に至っては、まったく思い出せないままである。

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