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第7回 グローバル化に向けて節目となる1991年


「パリ国際ランジェリー展」は1987年から定点観測が始まったわけですが、その4年後、1991年からはリヨンで開催されていた「リヨン・モードシティ」にも取材に行くようになり、年2回のパリ展示会取材が定着しました。30年以上にわたって年2回のランジェリーの展示会取材を続けてきたジャーナリストは世界にもあまりいないと思われます。少なくとも日本では私が唯一の存在となっています。
パリだけではなく、ヨーロッパの別の都市で開かれているランジェリーの国際見本市にも足を運ぶようになり、イタリアのフィレンツェで開かれていた「ピッティ・ランジェリー」は1990年と1991年。その後、ボローニャで開かれていた展示会にも行きました。そして、もともと世界最大の見本市だったドイツ・デュッセルドルフの「イゲド(IGEDO)」の取材には1992年と1994年、そして2000年代にも一度行っています。
この辺りの時期の記録物を見直すと、1991年が一つの節目になっているように思われます。

1991年は湾岸戦争がおこった

思い起こしてみると、今からちょうど30年前、1991年は湾岸戦争がおこりました。
イラクによるクウェート侵攻に端を発し、1月17日に国際連合の多国籍軍がイラクを空爆して始まってから、2月28日まで約1か月の期間ですが、テレビに映し出された映像は強烈な印象を残しています。
そういうなかでも国際線の飛行機は飛んでいたし、見本市も通常通り開かれていたので、私は取材に出かけました。しかも南回りルートで(おそらく空港運賃が安かったため)。企業に属していたら、海外出張は不可能だったことでしょう。
前年に次いで、まずフィレンツェの「ピッティ・ランジェリー」(1月25~27日)に行ったわけですが、当時のメモを見ると「日本人、アジア人は誰もいない」とあります。おそらくイタリア国内からの来場者ばかりで、会場もひっそり。イタリアらしいレース使いやシルク、おしゃれなメンズ製品はあるものの、原点にもどったようなボディスーツなど基本的なファンデーションが目立つ様子で、あまり華やかなトレンドはなかったようです。
パリも新聞社・リベラシオンの爆破事件があり、人々はテロを恐れて人の集まる所を避けているような事態でした。「パリ国際ランジェリー展」(2月2~4日)も入場者が前年対比2割減。主催者への取材によると、湾岸戦争の影響で市況も思わしくなく、企業買収が盛んにおこなわれていたことが分かります。80年代末期に活躍し、このnote連載でも取り上げた「アニタ・オジョーニ」「パスカル・マドンナ」といった個性派ランジェリーデザイナーブランド(連載第5回目を参照のこと)が軒並み倒産といった状況になっていました。特にヨーロッパはEC統合を前に、国際化が進もうとしていたところで、競争力のないところは淘汰されていくといった時期でした。

ワコールがヨーロッパ市場に進出

このような時期に、ヨーロッパ市場に進出したのが日本企業のワコールです。
創業者・塚本幸一の世界戦略に基づいたもので、1970年代のアジア市場、1980年代のアメリカ市場に次いで、1990年代は念願のヨーロッパ市場へと進出を果たします。
現地法人設立の翌年であった1991年、ちょうど「パリ国際ランジェリー展」のためにパリに滞在していた私は、オフィス(当初は確か、パリの新興地区デファンスのビルの一室だった)に出向き、当時はまだ会社がスタートしたばかりで手探りの段階だったと思いますが、日本から赴任していた責任者に話を聞きました。
流通システムの違い、商習慣の違い、消費行動のモチベーションの違い、消費者の体意識の違いなど、日本とは異なることばかりであっても、業界内のコミュニケーションやネットワークづくりに推進しようとする意気込みが感じられました。当時は既に企画室を設置(デザイナーを4人雇用)して試作品を作っているということでした。
2000年代になってから、同社も「パリ国際ランジェリー展」に出展するようになる(実はそれまで、主催者の熱心なラブコールの長い道のりがありました)のですが、それまでは毎年、オフィスに顔を出していました。日本から赴任する人の顔ぶれはだいぶ変わりましたが、設立当時に社長秘書をしていたソフィーさんは広報として今ではすっかり重鎮的存在となっています。

生き残りをかけたファッション化

さて、このような国際化と並行して、市場ではランジェリーのファッション化が浸透していきます。
1980年代までは、ごく一部の突出したデザイナーブランドが担っていたモードの要素は、ナショナルブランドの一般的なメーカーにも受け継がれ、ランジェリーのファッション化が進んでいくのです。当時のデザイナーブランドで今も現存しているのは「シャンタル・トーマス」と「プリンセスタムタム」くらいではないでしょうか。いずれも紆余曲折を経ての継続ですが。
余談になりますが、先ほどの「パスカル・マドンナ」。デザイナーのパスカルさんは、自分のブランドが無くなってからフリーランスのデザイナーとして仕事をしているなかで、一時期ワコールフランスの企画にも携わっていたことを聞いたことがあります。2010年代に一時ブランドが復活し、「パリ国際ランジェリー展」にリバイバル。会場で「私のことを覚えていてくれてありがとう!」と感激されましたが、それも2年程でいらっしゃらなくなってしまいました。今はどうしていらっしゃるでしょうか。
「プリンセスタムタム」の創業者(インド系姉妹。一人は2008年のホテル・ムンバイのテロ事件で亡くなる)も、ブランドから離れた後、2010年代に改めて自分のブランドを立ち上げていましたが、その後、どうなったのでしょうか。
こういったランジェリーのデザイナーブランドをつくったデザイナーは、共に団塊世代と思われます。まさにランジェリーのファッション化のパイオニアといえる人たちでした。
ランジェリーのファッション化、高付加価値化、もう少し違う言い方をすると、プレタポルテ(外着)と同じ感覚でランジェリーのおしゃれを楽しむことこそ、ランジェリーの生き残りをかけた挑戦だったのです。

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