再会からの気づき
先日、数年離れていた人と再会した。
その相手とは表面的には恋愛的もつれが原因で別れた、と見られていて実際私もそう思っていたのだが、時間がたった今、根本的原因は「自分の相手への過度な期待と依存」で、自分の精神的な弱さゆえの必然的別れだったと思った。
その相手は、まず自分のやりたいことに1番理解のある友人だった。
私は友人の数は少なくとも交友関係は続く質だが、その数少ない友人の中でも最も自分の専門的探求に対して良い返しをくれる相手で、その対話の数々からたくさんのインスピレーションと自尊心を得た。
私の専門的探求は非常にニッチな世界で、理解は得難い。苦楽を共にした母にさえ、反論されるのが怖くて言えないこともあった。そんな中で、否定はせずとも話を理解し広げようとしてくれる相手に巡り会えたこと、それは孤独な海外生活一年目の私にとっては、すがりたくなるほど嬉しいことだった。
しかし、今になって思えば、相手も人間であり、海外生活に不安を感じていて、不安定だったことは想像に難くない。2人の世界観にのめり込みすぎるがあまり、私は相手の輪郭を、希求を、性を、見て見ぬふりをしていたのだと思う。
相手は私を今でも「希望の星」と言ってくれ、別れたすぐ後も期待の意思は言ってくれていた。しかし、私はただ自分の裏切られたと思う感情が拭いきれず、その言葉を正直に受け入れるには時間がかかった。実際、その相手に自分の活動を見てにんまりされる可能性を想像するだけで嫌に思ったこともあり、投稿写真が載るようなSNS関連の縁は切っていた。
そこまでしても、心のどこかで引っ掛かりを感じる。別れて半年経った時、一度会ってはみたが、自分は虚勢を張ってる部分があり、「もう気にしてないから」と口では言ったが、行動には明らか敵意があった。
そんな時、私はたくさんの良縁に恵まれた。
学校の同級生、先生方、シェアハウスの大家さんと猫たち、パリの友人、職場の同僚、フランスに住む日本人の友人,etc.
そして、陽気なアフリカ系フランス人の恋人。彼のおかげで、自分にとってしっくりとくる「恋」「愛」を発見した。
そうやって過ごして、もうフランス4年目となった今。
やはり、別れた相手が気になっていた。相手はそろそろフランスからいなくなるだろうと思っていたから、後悔するよりは自分から連絡してみようと思った。
結論、そう思った感情は、恋愛的な復縁を望むものではなく、明らかに友愛だった。
相手を傷つけたくなったり、今の自分の現状を見られたくなかったりした事実は変わらないから、会うことに楽しみと緊張が混ざっていた。実際、相手は他のパートナーとうまくいっている。そのパートナーもフランスで同時期に出会った友人であったから、その場に一緒に来てたらどうしよう、どんな顔をしてあえばいいんだ、、、と思いながら、待ち合わせ場所へ。
相手はちゃんと1人で来ていた。
最初声をかける前は、フランス人たちの皮肉のこもったジョークを思い出しながら、建前の顔で会おうと思っていた。しかし、少しずつ会話が進んでいくうち、自然と自分の本音が言えるようになっていた。
そう。こうやってちゃんと話を聞こうとしてくれるあなただったから、私は自由に夢が語れて、自分の弱みも見せれたんだ。あの時の不甲斐ない自分を支えてくれて、ありがとう。そして、あなたの揺れる心の声を無視してごめん。思いやれなくてごめん。
そう思えた途端、私は「たらればの呪縛」から解放された。そして、同時に今を取り巻く良縁の数々に感謝をした。
恨みをいくら書き殴っても消えなかった心のもや。その正体は、恨みエネルギーで自分も傷つけ、「理解者」を失ったことを恋愛にすり替えて納得しようとしたこと。
今の私は、あの時の刺激的な関係が経験として必要だったが、自ら別れを切り出してしばらく離れたのは最良の選択だったと言い切れる。そして、あの経験は「恋」に近かったが、自分勝手を互いにぶつけ合ったからこそ「愛」には発展しなかった。当時のどうしようもない不安感を埋めるためにわざわざ友愛以上を期待し相手に頼りすぎたのだと気づいた。
我が愛しき人(彼)に感謝。
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