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個人的な推し記事

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「なんか好き」

まだ、夏です。 ども、コーシです。 「好きに理由なんていらない。」 その通りですよね、と思う。 対象がものであれ人であれ、「好き」という感情は論理性に欠けるものだと感じている。 論理的である必要もない。 「なんか好き」を追求し続けた人間だけがたどり着く境地があって、そこには誰も辿り着けない。 そんな理論では辿りつかない絶対なるパワーを持つ感情が「好き」という感情なのだと思う。 ここで終えてしまえば、格好がつく。 「いいこと言うじゃなぁぁ〜〜い。」と人にも言ってもらえそう

ダサさ。

夏宣言(ガチ)。 どうも、コーシです。 ここ最近のエッセイネタ不足はというとそれは絶望的なものなのだが、文章を書き終えた時のスッキリ感だけを求めて今日もタイピングしている。 なぜ、ここまで書くことが見つからないのか。 この疑問に対するアンサーの今回はかなり簡単なところにある。 それは”偉そうに語れることが何もない”ということだ。 私は”偉そうに語る”という文言を決してネガティブなものとは思わない。 それだけ自信を持って話せることがあるということは、人生において誇れるもの

それでも私は雨に消える。

”それでも”ってのは、”20になったにも関わらず”ってのと同義です。 どうも、コーシです。 満員電車に心を殺し続け、最寄りの駅に着く。 ようやく心を取り戻した私は、勉強による清々しい疲れを背負って駅を歩く。 地下から地上に上がるエレベータに乗ると、階段を降ってくる人たちの様子が異様だ。 みんな、傘を折りたたんでいる。 出た。雨だ。 なぜ偏頭痛で勘付かなかったんだよ。 傘なんて持ってきてない。 今宵の敵はどの程度かな、と言った具合に外に出る。 まぁ、傘があるに越したことは

演じている。自分が見ている。#本とエッセイ『舞台』

そろそろ気合いを入れ直しときましょう。 どうも、コーシです。 ”10代の頃”と言う言葉を使えるようになったので、使ってみる。 10代の頃、というか思春期の頃、自分の声がとても嫌いだった。それは声質や、声の高さではない。自分の声の変幻自在さが嫌いだった。 特に声変わりをしてきた時はとても聴いていられなかった。 家族といる時は、少し高い声が出る。 友人といる時の声は、まぁうるさく無い程度の声。 先生と話す時は、ちょっと透き通ったような声。 好きな人や気になっている人と話す時

雨と人混みに紛れながら。

春宣言(本格的)。 どうも、コーシです。 なんと完璧などしゃ降りだろうか。今日から新年度が始まるというのに実に現実的な天候だ。 正直、私は別に良い。もう20年も”ここぞで雨男”でやってきた。節目の雨には慣れている。雨に対して感じるストレスも段々と少なくなってきた。これは心のが平穏さを得たのか、それとも以前に比べて外に出ることが少ない生活に慣れて、雨による弊害が最小限になったからだろうか。 多分後者な気がして悲しくなりそうなので、考えるのをやめた。ブーツを履けるから、という

地元のラーメン。後編

最近地元の話多い?気のせいかな。 どうも、コーシです。 突然、ハタチの誕生日にどうしても地元のラーメンを食べたくなった私。 なぜこんなことを突然思ったのか理解できないまま、車は秩父市へと走る。彼女は突然の秩父行きの提案に驚いていたが快く「いいじゃん」と言ってくれた。 運転しながら、なぜどうしても地元のラーメンを、しかも誕生日に食べたくなったのか考えた。 自分のハタチ誕生日は特に特別視してないが、今日がハタチの誕生日じゃ無かったら地元のラーメンを食べたいなどと思わなかった

地元のラーメン。前編

また4月が来たよ。 どうも、コーシです。 毎年この3月の終わりから4月の初めにかけての感情というのはまさに異様だ。 年度が変わって新生活が始まることに素直にワクワクする気持ちと、どんなに充実していてもどこかやりきれないまま新年度を迎えてしまう気持ち、季節の変わり目、心が不安定になりやすいこの時期である。 そして私の場合、誕生日がある。4月2日。ハタチになった。この誕生日と言うものの存在感はメンタル的に厄介なのだ。祝ってもらえることはめちゃくちゃ嬉しい。 嬉しさを表すリアク

ただ、ピカピカにしたいだけ。

春服の出番。 どうも、コーシです。 洗うとか、磨くとか、そういったことを始めると沼にハマる性格だ。 私は黒板を綺麗にするのが大好きだ。大学生になった今、なかなか黒板消しを用いる機会は無いが、小学校、中学校、高校と暇さえあれば教室の黒板を消していた。 小学2年生の頃、いろいろな係を決める話し合いの時、”お花に水あげ係”とか”金魚飼育係”とか色々ある中、”黒板消し係”に立候補した。そして何人かいる”黒板消し係”の自分以外全員をほぼクビ状態にしてまで黒板消しをしていた。それに

人生をほじくり返す。

 冬なんだか、春なんだか  どうも、コーシです。  寝れないシリーズ。時刻は午前2時。イヤホンから音を流すのも気分じゃないし、かといって無音にさらされ続けると、自分と対峙させられて気まずい。  明日は3月の初日。月の始まりぐらいスッキリとした目覚めで迎えたい。しかし、ここ2、3年のできれば思い出したく無いような、後悔してもどうにもならない出来事がフラッシュバックして眠れない。  寝たい。切実に。  そういえばオードリーのラジオで若林が、寝れない日に”走馬灯に出てこない

写真に写ること。#プチエッセイ

 なんで、「はい”チーズ”」なのか問題。  どうも、コーシです。  写真。2004年生まれの私の人生には、生まれた時から当たり前のようにある。なので正直、ここ最近まで写真に映るということに対する想いというか、特別感というか、そんなものはなかった。  写真を撮られることが特別好きというわけでも、特別嫌いというわけでもなかった。  ただ、レンズの視線には何をしたら良いのか分からなることが多かった。今見ると、「なんて不機嫌な顔をしているんだ、コイツは。」というような写真は多い。

オードリーANN東京ドーム。

 どうも、平日の夕方コーシ。ひとつよしなに。  忘れたい事って生活の中に山ほどある。もちろん、忘れたくない瞬間は人生にたくさんあるけど。  頭の中でネチネチネチネチ反芻しては嫌になって、全然寝れなくて、いつの間にか頭痛と共に目が覚めて、頭が”それ”でいっぱいだから足の小指とかぶつけて、その日1日を諦めて、ネチネチネチネチ、、、。  正直ほぼ自分のこと。「あの発言が、」「あの行動が、」  たまに自分以外にも矛先が向いたり。「こんな日に限って、」「なんで、」  ごくたまに世の

孫のアイデンティティ。

 落ち気味の投稿頻度を横目に。  どうも、コーシです。  先日、一泊だけ帰郷し、祖父母家に泊まった。数年ほど学校からここに帰って過ごしていた時代もあったので、とてもとても落ち着く空間なのだ。  故郷・秩父は変わらない。  地元に帰った時というのは、カッコつけたいのかわからないが、「こここんな建物できたの?!」とか「このお店なくなっちゃったんだ、、」とか言いたい。何故か。言いたい。  でも秩父はそれを言わせない。無いものは無いし、あるものはある。もう無いかもな、と思ったも

”まだ”雪で楽しむ人。#プチエッセイ

 髭を剃る理由が無い定期。  どうも、コーシです。  窓に目をやると、雪が降っていた。  ”しんしん”と降っている、と言う感じでは全くない。もはや”降っている”って感じでも無い。横殴りも横殴りで”迫り上がっている”と言っても過言ではない。  そんな轟々と迫り上がる雪を横目に、今日も家で過ごす。ちょっと英語を勉強して、予定を立ててみたり。ずっとやりたいと思っていたことを、この春休みにここぞとばかりにやっている。  昔であれば、雪が降っていたらなりふり構わず即座に外に飛び

好きな歌詞を語りたいのだ。

  多分好きな歌詞って、その人の性格とかすごい現れる様な気がするので、これを読んでもらって少し私を知ってもらって、日々のエッセイをもう少し楽しんでもらえたりしたらとても良い。嬉しい。おしゃれ。気持ちが良い。ありがたい。  どうも、コーシです。  これまであまり、歌詞に集中して音楽を聴いたことが無かった。どちらかというとどれだけ心躍るかで音楽と向き合っていた。  そんな私だが、ここへ来て改めて歌詞を楽しんでいる。  文章を遊び半分で書く様になってから、耳に入る歌詞に対してと