負け惜しみも勝ちのうち

「他人の得が許せない人」の記事を読んだ。

納得できる話だ。というか、自分の中にも嫉妬の気持ちはよく生まれる。
特に何に嫉妬するかというと「コミュニケーション」によって評価を受ける人だ。コミュニケーションが苦手なのでほいほい繋がって交流して評価を得てる人には嫉妬しがち。

ただし、その感情はちゃんと嫉妬だと自覚して、自分の中で留めることを心掛けている。しかしずっと抱え続けるのも精神上よくない。

では、沸き上がった嫉妬の感情をどう処理するか。

「すっぱい葡萄」というイソップ寓話をご存じだろうか。

お腹を空かせた狐は、たわわに実ったおいしそうな葡萄を見つけた。食べようとして懸命に跳び上がるが、実はどれも葡萄の木の高い所にあって届かない。何度跳んでも届くことは無く、狐は、怒りと悔しさから「どうせこんな葡萄は酸っぱくてまずいだろう。誰が食べてやるものか」と負け惜しみの言葉を吐き捨てるように残して去っていった。

幼い頃に絵本で読んだこの話は、負け惜しみを言う狐をバカにするような文面だったような気がする。だが、私はこう思う。
葡萄を盗まなくて済んで良かった、と。この狐は、昔話によく出てくる狡猾で、時には罰を受けるような悪い狐にはならなかったのだ。おいしそうに育った葡萄、それはおそらく人間の育てた葡萄なのだろう。それを、なんとかして手に入れてしまったら、それは窃盗だ。

誰かの成功に嫉妬した時、その人の足を実際に引っ張ることは良くない行為だ。
だから、その成功を大したことではない、あまりおいしくない得だ、と自分の中で思い込むこんで納得するのは嫉妬を表面化させないための良い方法だと思う。
実際「すっぱい葡萄効果」という心理用語があり、どちらかというと肯定的に使われているらしいし。以下もWIKIPEDIAより。

自分のものにしたくてたまらないにもかかわらず、努力しても到底かなわない対象である場合、人はその対象を「価値の無いもの」「自分にふさわしくないもの」と見なそうとし、それをあきらめの理由として納得し、心の平安を得ようとするものである。
フロイトの心理学では、これを防衛機制および合理化の例とする。また、社会心理学においては、認知的不協和の例とされる。

というわけで、他人への羨ましさでどうしようもなくなったら、「どうせあいつの得なんか、大したことない」と、負け惜しみを言おう。思おう。それは、嫉妬のあまり相手に害を為して引きずりおろすことよりも、余程勝っている。


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