なぜ日本の街並をピクセルアートに描くと詩情があるのかについて若干考察

……よく言われるように、日本人画家もパリを描くと絵になるが、日本の街並みは絵にならないという。これは、第一次境界線は無秩序で構造化されていないため、絵にならないからであろう。

芦原義信著「街並みの美学」より

第一次境界線とは、集落を構成する建築物の統率された外壁のことであり、第二次境界線とは、そのおもてから覆われた看板、標識、垂れ幕、掲示板等々いわば移動する一時的突起物のことを言う。

前者はイタリー、フランス、ギリシャ、ベルギーよろしく、所謂西欧の外観である。後者は日本、中国、香港、インド、要はアジア圏を説明する。こと建築において、西洋は秩序、アジアは混沌を何となく連想するのは、こういう部分に出発する要因がありそうだ。サイバーパンクの宿命として、ぎらぎらした高層鉄筋コンクリートの内容にラーメン屋のいとなみを発見しても、東京よりはよほど「日本的」な古都的品性は、まさか気分程度すら反映していない。現代建築の問題を如実に表している。

実際に日本の一般的都市などは、驚くべきほど退屈である。電柱、電線、標識、無美学な住宅、ブロック塀、反公衆衛生の看板、交通。退屈にとどまるならまだましだが、私は時々たいへんな破壊衝動を感ずる。眼前の無差別犯罪をどうにかして先祖伝来なる我らの陸上から掃討し、幾何学に適った文明的な住宅を再建築できたら、日本風景はどれだけ愉快になるかしらと結構真剣に思う。戦後効率と利権を優先して今日、最早全面改修など到底無理なのがくやしい。絵に描くにも、当然ながらしごく不適である。

ところが、ひとたび筆からピクセルアートに至ると、芸術題材としての価値は覆る気する。あの身勝手な東京が、正方形の集合に表現された途端、得も言われず詩情をたたえるのは何故かしら。幾つか理由はあるにしろ、一番大きいのは、混雑を抽象化する所だろう。

ピクセルアートの本質は抽象化にある。ふつう紙面や画素数の許す限り緻密に描くことで写実に近づく絵画を、むしろできるだけ限定した、対象物の本質を描くだけの余裕しかないカンバスに表現し、かえってリアリティが生まれる。すべてイデア的に観察せざるを得ないというのがピクセルアートのたのしいところだ。曖昧と明瞭が同居するドット姿は、椅子も、机も、廃ビルも、犬も、おっさんも、愛おしくなる。

そこで日本の街並を考察すると、単なる写実では、もとの風景がつまらないから、必然西洋の建築を描いた作品に対して見劣りしかねない。日本の風景は実物を直視する場合うるさすぎる。何か良さを見出そうにも、表面の無駄な部分がふんだんすぎて、各々自己主張の強力さにすぐ疲れてしまう。一方ピクセルアートに写し込むとどうなるだろうか。本来の喧騒が、最大画素数という一定の限界値にとどめられ、美しい伝統建築などではむしろ失われる迫力も、日本の街並では不必要な冗漫を除く妙薬として作用する。そうして見た時、残ってあるのは、秩序と混沌の一致、生活感のある閑さ、ある意味瞑想的な離れる体験、ということに落ち着く。

ピクセルアートとは、初めから美術品を描くための画法ではないと思う。
裸にしておいては何の面白味も持たないもの、ありふれた風物、われわれの平常運転を相手にしてこそ、普段有耶無耶に附されていた詩情を判然なすがたに取り出してくれる。だからどちらかといえば、日本の街並を賞翫するために必要なのは、われわれの審美眼上の視力かもしれない。

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