天球徒然雲

ネットは現実そのものだから――すべての人へ。あなたは言葉の魔法を誰に、どう使う?

誰もが、言葉の魔法使いだ。

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インターネットやSNS、総じて「ネット」は、現実とは別の何かだと誤認している人たちがいる――それもどうやら、少なくない規模でだ。

まるで画面の中だけにある、現実とはかけ離れた別世界だとでも思っているかのように、彼らはいとも容易く暴言を吐く。

中には、自らの行いを別人格によるロールプレイだと標榜し、現実の自分とは切り離している人もいる。

それがとんでもない欺瞞だと、内心では薄々気づいているのに。

もしそんな欺瞞を放置したままでいるなら、ネットは現実だという事実から目を背け続けるなら、いたずらに誰かを傷つけ、失われるべきではない多くの大切なものが世界から失われていくだろう。

だから、何度でも言いたい。

ネットは現実そのものであり、その一挙手一投足は紛れもなくあなた自身を映しているのだと。

何度でも、何度だって言い続けよう。

あなたを含めたすべての人に伝わるまで、声を大にはせずとも。

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画面の向こう、回線越しに繋がっているのは、(今のところは)いつだって生身の人間だ。

その有名無名にかかわらず、心ある一人の存在として、必ずどこかで息をしている。そこには確かな鼓動も、移ろいがちな感情だってある。

あなたの言葉や行為は、生身の人間である相手に届くだろう。現実でのそれと同じように、確かに影響を与えていく。

そこに何らかの意図があろうと、あるいはなかろうとも、受け手の人生に波紋を起こし、未来の在り方を変えていく。

喜ばせることも、怒らせることも、哀しませることも、楽しませることもできるし、癒すことも、傷つけることも、救うことも、追い詰めることも、望めばできる。できてしまう、いくらでも。

だから、ネットでは現実でも言えることだけを言って、現実でもできることだけをやろう。

なぜなら、ネットは現実そのものだから。

ネットだからいいやと思っても、それはどこまでも思い違いだ。

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もしネットで誰かを攻撃したくなったなら、面と向かってそれをしたらどうなるかを考えてみればいい。

もしネットで誰かを騙したり、自分の利益のために利用するなら、現実でも同じことができるかと考えてみればいい。

その人を目の前にして、同じことが言えるだろうか?

報復してくるかもしれない相手に、同じことができるだろうか?

現実で罪に問われるとしても、それでも万難を排して、是が非でもやりたいことだろうか?

現実でもできるというなら、報復を受ける覚悟があるなら、自らの行いの結果を受け止められるなら――誰にもあなたを止められはしない。

でも、でもだ。

もしそれを、手軽で、気軽で、非現実的にも思えるデジタルデバイス越しにしかできないのだとしたら。

少しだけ目を瞑り、呼吸を整えて、実際に引かれているラインは現実のそれと同じなのだという事実を、どうか見つめ直してもらえないか。

なぜなら、ネットは現実そのものだから。

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あなたがそうだとは限らないけれど、そうだと仮定して話そう。

あなたは、単に知らないのかもしれない。

あなたが幸せにできるかもしれない人は、あなたが想像しているよりも遥かにたくさんいて、あなたに幸せをくれる人は、あなたが気づいていないだけで必ずどこかにいる事実を。

世界は、期待するには残酷で、しかし悲観するにはまだ優しい。

互いにそうと気づくことはなくとも、誰もが、誰かの言葉を心待ちにしながら生きている。

あなたの言葉を心待ちにしている誰かと、あなたに心満たす言葉を贈ってくれるはずの誰かが、今も世界のどこかで待っている。

限りある命を燃やしながら、運命が交差する明日を待っている。

だから、そうだ、願わくば。

もしあなたが現実で愛を語れるなら、どうか臆すことなく、ネットでも愛を語ってほしい。

ほとんど何の労力も金銭も必要としないたったそれだけの行いが、人生における最も素晴らしい記憶の一つとして残る可能性を秘めている。

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あなたが紡いだ言葉が、託した想いが必ず誰かに届くかといえば、そんな保証はどこにもないし、誰もしてくれない。

けれども、誰かに届くと信じてネットの海に投げ込んだ瓶詰めの想いや願いは、少なくともあなた自身には必ず届いて、人生を豊かにする。

あなた自身の愛ある言葉を受け取ったあなたは、きっと誰かを幸せにしたくなる。そういうものだから。

加えて、いざネットで愛を語ろうとすると、誰かを攻撃するよりもずっと難しく、勇気が必要なことに気づくはずだ。

全世界に向けて、自らの愛への所信を明らかにする。

そんな大それたことをするなんて、気は確かかと自問が始まる。

恥ずかしいとか、馬鹿にされたらどうしようとか、そんな考えばかりが頭によぎって、公開ボタンを押す手が震える。

攻撃なら簡単にできるのに。

攻撃の射手になるか、それとも愛の語り部になるかの違いで、向けるベクトルやわかりやすい標的の有無で、これほどまでに求められる勇気の大きさが変わってくると理解している人が、一体どれだけいるだろうか。

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言葉は魔法のようなもので、人は誰もが言葉を操る魔法使いだ。

使い方によっては思いどおりの結果が手に入り、間違えれば思いもよらない結果にもなる。

あなたが本気になれば、誰かにとって生きる理由や人生の意味を見出せるほどの、文字どおり魔法のような言葉を紡ぎ出せるかもしれない。

あるいは、何の気なしに放った呪いの言葉が、誰かを生涯苦しめてしまうかもしれない――今も無尽蔵に生み出されながら、ネット上を跋扈しているそれらのように。

言葉の魔法一つで、人生は変わっていく。

だからどうか、その魔法を悪いほうにだけは使わないでほしい。

あなたが人生において言葉を贈るべき相手は数知れず、贈るべき言葉が尽きることはないのに、許された時間だけは限られているのだから。

さあ、自分の時間が残っているうちに、誰かの時間が尽きないうちに、贈る言葉を選ぼう。