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きっとやさしい夢を見ている

子どもの頃、私はパセリの味を知らなかった。

彩りを添えるために皿に盛り付けられた、緑色の葉っぱ。あるいは、茎の細いブロッコリーのようなもの。そんな印象で、好きとか嫌いとかそんな話の以前に、そもそもパセリを食べるという発想がなかったのだ。
そんな折たまたま見聞きしたやり取りで、今も強烈に記憶に残っているものがある。
そこでは、とあるパセリ農家の方が「我が子だと思って大事に育てているからすごくかわいい」と言いながら紹介したパセリが、実は殆ど食べられることなく捨てられていると知らされて甚くショックを受け、「おいしくできたと思ったんですけどね…」と、ビニールハウスの中で項垂れていた。
テレビ番組での一幕だったと思うけれど、改めて振り返ってみると、なんて絵面だよという感じだ。あまりに切なくて胃がキリキリする。当時燃えたりしなかったんだろうか。

だけど私はそれで、自分が悪気なく蔑ろにした何かのことを、深い思い入れを持って大切にしている人がいるということを自覚したように思う。

じゅりちゃんが紡ぐ言葉のやさしさに触れるたび、私は勝手にこのパセリ農家さんのことを思い出している。

↑こんなツイートもしていた


■じゅりちゃんの言葉は、強くてやさしい。

顔が好き、歌声が好き、芝居が好き、体格が好き、身のこなしが好き、考えている(とされる)ことが好き。
アイドルを好きになる理由にはきっと多様なきっかけがあって、何か一つの特出した魅力が人を惹きつけて離さないってことももちろんあるだろうけれど、私の場合は先に挙げたもの全てが好みの系統であることを大前提として、何よりも「言葉が好き」がないと好きの気持ちが持続しないという自覚があった。
私はスーパーマンでも超能力者でもないから、見ているだけでその人の伝えたいことを汲み取るなんてできなくて、言葉にされて初めてその輪郭を朧気にでも掴むことができる。

今楽しそうだなぁとか幸せそうだなぁとか、そういう漠然としたことはわかっても、彼が何を見聞きして何を感じ、どう考えてその行動に至ったか、そしてその過程や内側を受け手にどこまで、どのように知っていてほしいか。そういうことについては、言葉にされないとわからない。というか、言葉にされていないことをあまり勝手にわかった気になりたくない。

だから私にとっては、アイドルが伝えたい分だけ丁寧に切り取って見せてくれる、そのために使役される言葉が好きであるということが何よりも重要だった。

じゅりちゃん、こと田中樹さんの長いアイドル人生のうち、私はまだわずかな時間しか彼のことを知らないけれど、その間にも“好き”が持続するどころか日に日に熱が増している気しかしないのは、ひとえにじゅりちゃんの口から放たれる言葉の、その精度の高さに惚れ込んでいるからなんだと思う。

今日という日、そんな彼の29歳の誕生日に寄せて、じゅりちゃんの言葉について自分なりに考えていることを書き残してみることにする。

私は、多方面に気遣いを向けて、細部にまでやさしさの宿る言葉を紡ぐじゅりちゃんのことが好きだ。

先ほども述べたように私は彼のことをまだほんの数年分の姿しか知らなくて、彼が「そう」なった、ならざるを得なかった日々について語るべき言葉を持っていない。
だからまずは、じゅりちゃんが28歳だったこの一年間のうちに知った、じゅりちゃんのやさしさが向けられてきた先の多様さを振り返りつつ、そっと、大切に撫でてみることにする。
こうして改めてまとめたものを読み返してみると、そんなところにまで!?と一瞬驚いてしまうような対象にもじゅりちゃんのやさしさは降り注いでいて、ほのかにくすぐったいような、触れたところからじわりじわりと身体の芯まであたたまっていくような、そんな心地がした。
やっぱりこの人の言葉が好きだなぁと思う。

※去年に引き続き私は連日連夜Twitterに入り浸っているので(相変わらず困った自己紹介だな)、以下はこの一年間でじゅりちゃんのやさしさを感じた瞬間について述べている自分のツイートを引用・再編集して時系列順に並べた結果です。ANNの実況ツイートが多めで、当然のことながら文字起こしとしての正確性には欠ける気がする。

■28歳だったじゅりちゃんの言葉たち

・Vネックにやさしいじゅりちゃん「ダサくはない、けど着てる人いないよねっていう」
 
・大谷選手の活躍ぶりに触れるじゅりちゃんの「もっと前からすごかったけど、WBCを経てさらに勢い付いたと思う」とか「俺が注目して見てるからかもだけど、」とか、逆接に込められた丁寧な配慮の姿勢

・巷で乱用されている蛙化現象というワードに怒るじゅりちゃん「蛙化って言ってる自分、みたいなとこあるじゃん」「言っときゃ良いみたいな流れが来そうでちょっとこわい」「蛙にも謝ってほしい」

・「奥の方ムダ毛処理見えてるぜー!」というライブの煽りボケに対して「でも処理してない奴ら、もちろんその毛はムダじゃねぇぜ!」と即座に重ねるじゅりちゃん、実際のところ本人は断固ムダ毛NG派なことから考えると“バリューの真実は高校生と一緒に作る番組である”という意識が強く出ているような気がして、好きだ

・TwitterがXに名前を変えたことについて日本版XとX JAPANで被りを回避するために小文字表記とかはダメなのかな?ひらがなとか?って思案するじゅりちゃん「ごめん俺そういうさ、商標登録的なところは知識がないんだけども…」って言い添えてるのさすがにデカ配慮すぎ

・パーソナリティークイズ今日が賞味期限だよってリスナーに言われて、でも消費期限はまだ!と返す慎太郎すごく〝生活〟を感じて好きだし、じゅりちゃんは「一番美味しいやつ食べようよ(汗)食べ物だったらね?無駄にしちゃいけないけど…(汗)でもトークは新鮮なものにしようよ(汗)(汗)」ってすごく大事な視点に立って話をしている

・大きなライブ会場はみんなが知ってる場所に建てた方がわかりやすくて良いんじゃないかなーって本当にそれはそう!となる発想で、それと併せて「そういう場所は広いことに意義があるのであって置くものがなくて空き地みたいにしてるわけじゃないから」と添えるじゅりちゃん本当に隙がない

・いつかまたチワワと暮らしたいけど空ちゃんに申し訳なく思ってしまう気持ちを「似ている子を飼うのが悪いことだってわけじゃなくて」と前置きした上で「空ちゃんだと思って飼ったらその子にも申し訳ない」という感情をあくまでも「俺が勝手に思っちゃう」だけと語るじゅりちゃんは、空ちゃんのことも、新しくお迎えすることになる子のことも、喪失の中で新しくわんこをお迎えした人のことも、みんなのことを等しく想っている

・今週の京本大我ANN、自発光できるから電球切れても大丈夫な大我さんが水族館の深海魚コーナーはほんとは光を落としたい場所なんだけど…って言ってるの聞いたじゅりちゃんが小声で「深海魚もびっくりするからね?」って返してるの優しすぎて仰け反った

・千切りで美味いのはキャベツだけ、にその場でツッコむんじゃなくてメール受付の告知したあとに改めて「…あと、ま、そのぉ~…千切りで美味いのは別にキャベツだけではないと思う…」って言い添えたじゅりちゃん相変わらず配慮の鬼だけど、その間を置いたことで余計におもろくなってしまってる

・ラーメン屋の店主にまずはスープからと勧められたのでスープを飲み干してから麺を食べる、というボケのメールに「そのラーメンの本領は発揮できてないと思うよ!?」とツッコむじゅりちゃん、ラーメン屋の店主にめっちゃ寄り添ってる

・きょもほく連番ライブ見学の話を大我さんから聞くじゅりちゃん、その場に片方しかいない状態で話されるエピソードだからこそ、大我さんの隣に座ることを再三確認した北斗くんに対する「一応ね、やだってことじゃない」とか「必要以上に聞いてるわけだ。あいつちょっと恥ずかしかったのかな」とかの相槌がふかふかのクッションみたいにやわらかく響く

・文化祭と体育祭を比べた時に楽しかったのは体育祭だけど、文化祭には殆ど参加できなかったからってだけで、参加できてたら文化祭もテンション上がってたと思うじゅりちゃん、まさか行事にもやさしいなんて…

・スカイツリーの高さの真逆として「大江戸線」が出てくるの生活を感じて超良いし、でも年越し生配信のために貸し切ったら終電間際で焦ってる人たちに迷惑かけるな…という現実的配慮の設定があるじゅりちゃん

・年明けananのじゅりちゃん、「現状に満足していないっていう言葉も、現状に失礼な気がしてあまり好きじゃない」との言葉が飛び出していて、いよいよ概念にまでやさしい

・企画の都合上しかたなく多摩動物公園を爆速で通過しなきゃいけないじゅりちゃんが「こんな良いさ、動物園さ、ゆっくり見ちゃいけないなんて地獄じゃん!」って言ってるの、どこまで意識的かはわからないけど撮影に入らせていただく立場としてすごく大切な言語化だなぁと思う

・ドーム初日、MC明けはしっとりした曲やるから座ったままで聴いてねと呼びかけてからまぁ立ちたければ立ってもいいよって言いかけて、多分それだと見えない人が出てくるな…となったのか改めて「この後いっぱい暴れてもらうから今は座っててね」と言い直していたじゅりちゃん

・気にしてると思うのでキウイを脱毛してあげる!というボケのメールに「気にしない気にしない、大丈夫だよ」「あと脱毛が必ずしも正義ではないからね」と返すじゅりちゃん

・ビヨンセのゲリライベントの話から髙地もゲリライベントでバイク触らせる会やれば?という流れの中で「せっかくだから時間は無制限で」とか「髙地が立ち去ってから触るのはNG」とかさり気なくどちらの立場にも優しいルール設定しようとしてるじゅりちゃん、ギャグ文脈の中でも守りたい一線はあるタイプの人

・ダディ~の近況トークでさ、ご飯会でジェシーのことスルーしていいですよって言われて本当にツッコまなくなった小田さんの話を聞いて「親友同士の絡みみたいになったんだね」と相槌打つじゅりちゃんがいたの、誰かが損するような誤解は生まないぞという気概を感じて堪らなかったな…

・MCで普段と違うことやったらSNS荒れるかもしれないから…の流れで慎太郎が俺のpaypayダンスも荒れちゃわない!?ってなった時じゅりちゃんがそれは自信過剰かもしれない(笑)ってツッコむにあたって「結構好きだよ?好きだけど」という言葉が導入にあったこと、本当に大切で大好きで忘れたくない

・ドームオーラスのMC、SixTONESの曲を登場に使ってくれてる選手の打席のとき実際歌いに行くのどう?って話の時さらっと「グラウンドとかには絶対入らない方がいいじゃん」と言ってから控えベンチで歌う小芝居に持っていくじゅりちゃんとか、今の野球選手だと一番有名なのはやっぱり大谷選手かな?って話の時「他にも素晴らしい選手はたくさんいるけど、やっぱり…」の導入を欠かさないじゅりちゃんとかが居た

・5月1日(水)のCD発売日の配信で「GWとはいえ平日だからまだ受け取れてない人もいるかもだけど…」と前置きするじゅりちゃん、自分はGWなんて関係ない忙しい日々を送っているのに一般社会人のカレンダーに対する意識がはっきりとあるの、本当にすごいことだ

・カップ焼きそばって言うけどあれ焼いてねーじゃんか!とお怒りの大我さんに対してじゅりちゃんが「カップ麺でもぉ、あれ、焼きそばと同じくらいのクオリティが食べられますよ!っていう、ものだから」ってめちゃ小声&早口でフォロー入れてるの相変わらず律儀すぎる

・海外旅行先としてミーハーなチョイスするんだろとイジられて舐めんな!!!誰も聞いたことない名前の国行ってきてやっからな!!!と吠える北斗くんに「ねぇから、ないからそんなの(笑)」と返すじゅりちゃん、おふざけやりとりの中でもそこを確実に取りこぼさない人ですごかった。無用な攻撃性を持たせることなくラジオエンタメをちゃんと面白いものとして成立させられる力があるの、SixTONESの大好きで尊敬してやまないところでもある



これらの内容は、先のツイートに則って、できる限りエンタメ性やバラエティー色を感じられるものを選んだ。あくまでも印象的だったものを中心に検索をかけたので、きっと取りこぼしもたくさんある。
私はごく普通の人間なので、書き残しておかないと忘れてしまうことばかりで、たとえ書き残したとしても思い出せないことが数多ある。惜しい気もするけれど、一部だけでもこうして覚えておいたおかげで、じゅりちゃんはやさしい人だ、というか、そういう風に振舞おうとしてくれるアイドルだ、という確信だけははっきりとあって、たぶん本当はそれだけでいいのだろうと思う。
ほんの些細な、もしかしたら本人としては何の気なしに呟いただけの言葉を、いつまでも記録されて掘り起こされて繰り返し鑑賞されることを仕事のうちとしている、改めて考えるとアイドルって凄まじい職業だ。

■こまやかさの根源に何があるのか?

『天国耳~叶姉妹さんお聞きください~』という番組に出演した時、じゅりちゃんは「人見知りでネガティブで色々気を遣いすぎてしまう。炎上も怖い!」「自分の少しはっちゃけたというか、自我の一個いったところの発言とかを切り取られるのも怖くて…自由にすることが、怖いんですよ」と言っていた。なんだかこれまでの色々なことの答え合わせをされている気分だった。

恋愛観について甚くドライな価値観を常日頃から開示しているじゅりちゃんは、昨年9月の月間TVnaviのインタビューの中でもいつも通りの浮気に対する考えを展開していた。けれど、その途中で「女性に限らず男性同士でも、100%相手の需要を満たすことはできない」と触れられていて、これはもういよいよとんでもなく好きだぞと思った。意識的かは知らないけれど、じゅりちゃんは恋愛系のトーク中で男女の区分なく〝人間〟との関係の話をしてくれることが割とある。

3月に発売されたポポロでは、自分について「話す内容や言葉遣いに敏感」と言っていた。その自覚を明文化してくれることが、勝手にうれしかった。4大ドームツアーのオーラスへ向かう丸ノ内線の中で読んだVoCEでは、じゅりちゃんが「接続詞や語尾を変えるだけでも伝わり方が変わる」という意識のもとで自分の発する言葉の責任を考えながら話してることを教えてくれていた。
「メンバーにツッコミを入れるときも、一発目から鋭く食い込むんじゃなくて、まず『なんでだよっ』と何でもないことを発した後に、よく考えて補足」しているらしく、そしてそれらすべての気遣いを「こう言っておくと、今後何も考えずに発言しても、熟慮したうえでの言葉だな、って勝手に深読みしてもらえますね(笑)」なんて、さらりとまとめていた。

河合くんのYoutubeにゲスト出演した時、思い出話に花を咲かせる中で、今だったらパワハラだよねと言われた飲み会のノリについてじゅりちゃんは「いつの時代も、パワハラはパワハラです」と返していた。あくまでも冗談ぽく、軽やかにそれを言う感度の鋭さがたまらなかった。
亀梨くんのYoutubeにゲスト出演した時、じゅりちゃんは本当にうれしそうに、顔をほころばせながらSixTONESの仲の良さについて話したあと、KAT-TUNのことを聞いて「その距離感が(関係を)長続きさせるためには意外と大事だったりしますよね」「それ(=お互いのプライベートを知らないこと)が逆にKAT-TUNさんには居心地が良い距離感なんですね」と受け取っていた。安易に良し悪しの対比に持っていかないところ、素敵な人だなぁと思う。

先輩のYoutube企画におけるじゅりちゃんの言葉は、単純なやさしい、とは少し異なっていて、自分の立つべきポジションを自分の言葉によって明確に選び取っている、そういう強さがあった。

じゅりちゃんはきっと、物凄くやさしい。それと同時に、このやさしさは理由のないやさしさじゃなく、ある種の自己防衛が働いた結果であるとも思う。そしてその現実性の高さが、私はとても好きだった。

理由不明の博愛精神はどこか得体の知れない不気味さがあるけれど、傷つけられたくない、攻撃されたくないという感覚は誰しも心当たりがあるだろう。
言うなれば“怯え”を出発点の一つとしたじゅりちゃんのやさしさは、それを向けられた対象と、更にその先に透けている見知らぬ誰かとを等しく慈しむと同時に、じゅりちゃん自身をくるんで守る盾になっている。そのことがどうしようもなくうれしかった。

全然やさしくない世界を生き抜くために、じゅりちゃんはやさしい。

■きみはアイドル、やさしいアイドル。

じゅりちゃんというアイドルは、しなやかなやさしさを持っていると思う。

多方面に向けて配慮という配慮を尽くして言葉を紡ぐことで、誤った理解を受けないように、誰かを傷つけないように、そして、それによって傷つけられることがないように。選び抜かれた表現に滲むじゅりちゃんのやさしさに触れるたび堪らない気持ちになるけれど、私が彼に感じるやさしさのもう一つの種類として、言う・言わないの取捨選択の結果あらわれる「アイドル像の設定の緻密さ」というものがあった。

28歳のじゅりちゃんが世に送り出したデビュー後はじめてのソロ曲『Sorry』のメイキング映像を見ると、そのことがよくわかる。

「自分を客観視して、自分がいつもステージに立ってる時どう見えてるんだろうというところから、田中樹像になるべく近付けていくというか」「時間かかったり難しい部分はあるかなと思うけど、できた時は、ほんと、田中樹のエキスがたっぷり入ったものになってると思います」

私はじゅりちゃん、田中樹さんという生身の成人男性が、自ら考え、選び取り、築き上げたアイドルの“田中樹像”が本当に大好きだし、そうした作為に自覚的であることも大層いとおしく思っている。
だからこそ、ソロ曲に取り組む上で自分自身の“像”に生身の自らを近づけていく、という発想の言語化があまりにも美しくて、ちょっと困ってしまうくらいだった。
そしてじゅりちゃんは、アイドルの“田中樹像”の対になる存在としての生身の自分自身をこう語る。

「普段はもっと猫っぽい男子なんですけど…猫男子。甘えん坊だし、赤ちゃん言葉で喋ったりとか普段は多いんですけど」
「普段は『俺』って言わないし。『僕』って言うし。一人称じゅりだからぁ、俺、プライベートで。だけどステージだと『俺』って言ってるから。だからどっちにしよう、よりリアルにするんだったら一人称じゅりの方がいいのかなとか。悩んだんだけど、やっぱステージ上での田中樹でいくには『俺』じゃないとダメかな」

もちろんこれらの発言がじゅりちゃんの冗談なことは私にもわかっていて、周りスタッフさんにも大いにウケていたけれど、ステージ上の自分とそうでない素の自分に違いがあることを語る時、その素、の内容はあくまでも誇張されたボケの範囲に収められていたことで、彼の本質には指一本触れられないまま、ひたすらにブランディングが強固になっていく。本当にとんでもないと思った。

じゅりちゃんってすごくすごくあけっぴろげに、包み隠さずなんでも言う!というイメージがあるかもしれないけれど、実際のところは何をどう言うか、そして何を言わないか、の判断がかなりしっかりとなされているように感じられる。そしてそこが、数多あるじゅりちゃんの好きなところのうちの大きな一つでもあった。
意図してやっています、敢えてこの振る舞いを選んでいます、といって手の内を明かす範囲すら自在にコントロールして、コーティングされたアイドル像の隙間にあるやわらかいところをほんの少しだけこちらに見せて、そこから受け取るある種の繊細さとも呼べるギャップまでも己のブランディングに組み込んでしまう人。私が勝手に解釈している“田中樹像”を言葉にするとしたら、こんな具合になる、かもしれない。

そう、これはあくまでも勝手な解釈としての話だ。

私がここまで1万字弱かけてあれやこれや書いてきたじゅりちゃん、は本当に私が見て考えた結果の産物で、当たり前だけど彼の本質の解説には至らない。私はじゅりちゃんじゃないから、それもごく自然な話だった。
「それぞれが好きになってくれた姿が全てだから、好きになったところを好きなように応援してね」と冗談めかして言ってくれた21年の年明けの雑誌インタビューを免罪符に振りかざしたいわけじゃないけれど、じゅりちゃんのそういう“眼差される対象としての自覚からくる理解”を、私はやさしさだと思っている。
このやさしさの意味するところを言葉にするとしたら、解釈することを許してくれている、なんて言い方はきっと適切じゃなくて、そもそもアイドルとは解釈されるものだ、というある種の諦観めいたものとでも言うべきだろうか。

生身の田中樹さんという人間は世界にたった一人だけれども、アイドルの“田中樹”は見る人によって様々な像を結ぶ多面的な存在としてそこに立っている。自身の振る舞いや言葉によって自分の見せ方を規定しながら、言わないこと・曖昧にすることを明確に選び取ることで解釈の余白を残してくれる、じゅりちゃんのそういうアイドルとしての在り方のことも、私はやさしさと呼びたい。

■じゅりちゃんは今日、29歳になった。

じゅりちゃんの最後の20代はどんな一年になるのだろう。
20代なんてまだまだ若い、とみんな言うし、実際そうなんだろうけれど、いつぞやのほくじゅりANNの言葉を借りるなら「おじさんのリハが始まっている」とも思う。一介のオタクと一緒にするなよという話ではあるものの、彼らと同世代の私自身も実感するところ、10代後半から20代前半にかけての無敵感は失われつつあり、無茶をしたらちゃんと疲れるし、ちゃんとそれを引きずるようになってきた。あと、飲むお酒の量は変わらないはずなのに嘘みたいな頻度で二日酔いになる。
そんな頃、新曲プロモのためにゲスト出演したラジオ(東京プラネタリー☆カフェ)で、じゅりちゃんは最近生活を整えるように気を遣っていると話していた。
そしてその理由を「やっぱ長続きさせないといけないので。長く続けるのが一番大変じゃないですか。まぁ全然まだ僕たちは走り出したぺーぺーなんですけど。長く先を見据える上でも、何か目標ができてそれを叶える上でも、長く走れないと駄目だなぁと思って。気を付けようと思ってます」と教えてくれたこと、本当にうれしくて仕方がなかった。

アイドルとして長く走り続けるために以前より健康を意識するようになったじゅりちゃん。
ソロで活動していたら放置してしまうかもしれない些細な不調の兆しも、グループで活動してる以上は万一のことがあるとみんなに迷惑をかけてしまうからという考えのもと、早めに薬を飲むようにしているじゅりちゃん。
ドラマの撮影で朝早く起きて活動することが増えた結果一日三食摂ることが習慣化してきたじゅりちゃん。
ちゃんと食べるようになって秋から春にかけて4キロ以上体重が増えたじゅりちゃん。
健康的にお肉がついたおかげでマネージャーさんにビジュアルを褒められたと得意げだったじゅりちゃん。
MC中にお腹が空いたと言い始めてヤンチャデカサイズのおにぎりを頬張るところを5万5千人に見届けさせてくれたじゅりちゃん。俺が食べてる間はそっちで話回してて~とゆるめに依頼を受けたメンバーのみんなは、しっかりMCを進行しつつ、演出で使った花吹雪を拾っては改めてじゅりちゃんに降らせることでお花見気分を味わわせてくれたりもした。ここにきて食に関心を持ち始めたじゅりちゃんのことをみんなが穏やかに見守ってくれるところ、愛だなぁと思う。北斗くんは食べる前にちゃんとおしぼりも手渡してくれたし、受け取ったじゅりちゃんは「おてて拭かないとねー」とか言ってた。かわいすぎる。(それを聞いたジェシーさんも、お前おててって言うんだ!かわいい~!と大絶賛だった)

好きになった瞬間から絶えずじゅりちゃんの痩躯を愛しんでいるけれど、大前提として「元気に、健康に、楽しくアイドルを続けていてほしい」と常日頃祈っているからこそ、“20代後半”を意識し始めたじゅりちゃんの変化が心の底から喜ばしい。28歳のじゅりちゃんを見つめていた一年間は、そんな時間だった。(※相変わらずエナドリは常飲してるらしいけど。)

健康に気を遣うということは、自分にやさしくすることだと思う。
そしてそのやさしさの動機が「アイドルとしてこれからも走り続けてゆくため」だなんて、そんなのってもう愛の告白と同義だ。

私は、本当はいつでも自由に“好き”を辞めることができる。たくさん泣くかもしれないし、未練がましく執着の痕を吐き出すことになるかもしれないけれど、何かを好きでいることも、誰かを応援することも、いつだってこちらが勝手に始めた物語で、そこに強制力は微塵も働いていない。一生好き!と声高らかに宣言して、明日にはすっかりなかったことにしている可能性だって、完全にないとは言い切れない。
そんな身勝手を許された(というか、仕組みとしてそうならざるを得ない)私にも、どうしたってできないことがある。それは、"好き"の対象の在り方を決めることだ。彼がどんなアイドルでいるか、何を発信して、どこに微笑みを向けて、何に口を噤むことを選ぶか。そしてそもそも、アイドルでいるのかどうか。それら一切のことを、私は決める術を持たない。

かつてじゅりちゃんはアイドルのことを「人種じゃなくて職業」と言っていた。アイドルという生き物として生まれ落ちたわけではなく、アイドルという職業を自ら選択したのだと語るじゅりちゃんは、だからこそ「自分で選んだ職業に責任を持たないと」とも続ける。
アイドルを選び、今日までアイドルで在り続けてくれているじゅりちゃんは、末永くその道を進んでゆきたいという意志をもって、今時点におけるその思いを言葉にして伝えてくれている。「あなたの宝物は?と聞かれて『アイドル活動です』って答えが出てくるって、すごく幸せなことだよね。」という週ガイれんさいの言葉が、それこそ宝物みたいに光り輝いて見えたのは、きっと気のせいなんかじゃない。

やっぱりじゅりちゃんの言葉は私にとってとびきりのやさしい愛であり、眩しいくらいの強さだった。


もうずっと長いこと、「言葉が好き」で誰かに惚れ込む人生を送っている。
言葉は、一目惚れ・一聴き惚れすることが難しい。その人の口から紡がれた数多の言葉たちを受け取って、ゆっくり咀嚼し続けることで初めて、私はじゅりちゃんというアイドルがいっとう好きであると確信することができた。たとえて言うなら、とろ火でじっくり煮込んだようなこの“好き”のかたちが、とてつもなく愛おしいと思う。そして今日からまた一年、私はじゅりちゃんから言葉をもらって、火をくべていく。そんな日々を過ごして、じゅりちゃんが30歳を迎える時、私の“好き”の深度はどうなっているだろうか。

ここ数年は特に、未来のことなんて誰にも分らないと痛感させられることが多い。けれど、今、私は不思議なほど無邪気にこれから先のことを楽しみにしている。それは、少なくともこの時点におけるじゅりちゃんの言葉が、やさしくすべてを包み込んで、強く、それでいて繊細に私を励ましてくれるからで、未来がわからないからこそ、現在の確かな一瞬を積み重ねながら前を向くしかないことを知っているからだ。

本当にもうどうしようもなくじゅりちゃんの言葉が好きで、そんなじゅりちゃんの言葉によって形作られたじゅりちゃんというアイドルのことが好き。そしてまた、大好きなじゅりちゃんが言葉をくれる。そういう風にぐるぐると同じところを回っているうち、感情の純度が高まって、背筋がすっと伸びるような感覚は、不思議なくらい心地よかった。
私は今、ひどく幸福な円環のなかにいる。


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