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記録〜大我〜

中学三年生の秋。

二学期のメインイベントである体育祭も晴天の元、盛況のうちに終わった。

意外にも少年のダンスはリズミカルで軽やかだった(笑)。
息子の時のそれにより、中学生男子のダンスへの偏見があったものだから、その発見は嬉しかった。
夕食時、ダンス良かったよと褒めたら、彼は無表情で視線を逸らし横を向いた。
そんな時は照れ臭くても「ありがとうございますっ!」と、言っとくもんだよ〜!と突っ込んだら苦笑いして頷いた。


いよいよ高校受験が近づいてきて、彼の心境や行動に変化があるかと言われれば、そうは全く見えない。
基本彼はポーカーフェイスなので感情の揺れを殆ど他者に見せないせいかもしれないが。


よくよく考えたら、「受験勉強」というものをどういう風に捉えてるだろうかと気になった。

ある日彼に、一つ一つイメージできる様に質問してみた。

まず、目指している高校にはどの位行きたいのか、行けるイメージを何%位持ってるのか。その高校に通う自分を想像はしているか。または、違う結果になった時のイメージを持っているかなど。

   90%は通うつもりでイメージ。

では、そのために具体的に何をしているのか。

   問題集などやっている。

学習のうちどの位理解できているか。

   半分くらい。

では受験の時、その理解出来てない箇所が問題として出てきたらどうするか。

   (困った顔…。)

どんな問題が当日出されても、「何でも来いっ!」の状態に近づけていくのが、いわゆる受験勉強だとおばちゃんは思うと伝えた。

その為には、あと五ヶ月の間、五教科の中の理解出来てない箇所を一つ一つクリアにしていく作業をしないといけないね…と。
一か八か、行き当たりばったりでは不安だよね…とも。

少年に、この話は理解出来ただろうか?
実際の行動に置き換えるイメージを持てただろうか?

当たり前、常識と思っている事を実は分かっていないかもしれない事に今更ながら思い当たり説明したが、その先の結果がどうなろうと後は彼次第という事になる。
彼の意思の力と、それを行動に移す力が試される。


さて日常。
細かい変化は色々あれど、家でも学校生活でも淡々と時は過ぎている。

例の、ごまかし癖はもう常態化し過ぎて、どこまでどの程度ツッコミを入れてよいかわからない。

例えば朝、顔をパシャパシャと洗う‥事をしたフリをする。
最近は拭いたフリの為のタオルさえ洗濯物に出ていないなぁと思ってたが、ある日、水を出す音だけ五秒程度させた後に、箪笥からタオルを出した気配も、ましてやタオルを使った気配もなくしれっと洗面所から出てきたところを現行犯で注意した。
彼はもう「やったフリ」動作が当たり前になり過ぎて、バレたらいけないと思う緊張感すらなかったらしい。
コントだ、全く。

平気で嘘をつけるその心が問題だよ…と私はつい彼にぼやいた。それに朝に顔を洗わないのは汚いしと。
ぐちぐちを夫に軽く止められた。

どうせ嘘はバレる。
絶対にバレる。
バレた時に信用はなくす。
信用がなくなれば他人は離れていく。
そんな事はもう何度も言って聞かせているが。

それを思うと深刻だとは思う。
彼の将来を思うと。

…と、
その考察のループにはまったので、私の中の軸であるスピリチュアリズムに沿って考えを整理してみた。

神の一部である私も少年も、それぞれのカリキュラムを背負って類魂から一雫、この物質界に生まれ落ちてきた。自分のカリキュラムに相応しい宿命を決めて生まれた後、守護の霊魂たちに見守られ導かれながら魂の向上(または衰退もあり得る)の道を運命として切り拓く。
魂の家族である類魂から別れた魂(自分)を様々な経験と感動を経る事で磨き少しでも曇りを取る努力をし、肉体を捨てまたふるさとへと帰っていく。そして神の全体の向上に繋げていく。

この世で言う失敗や躓きも学びのうち。
病気や老いでさえ不幸ではない。
死は単なる卒業。
死して魂は死なない。
物質的な豊かさ=幸せではない。
この物質的価値観の中でしか出来ない経験と感動を通して学びを深める。

そしてまた、幸せとは恐れるものがない事。
この霊的価値観を真に理解し軸に生きていれば恐れるものがない。
問題はあれど悩みはない。
良い事も悪い事も必要以上に起きない。
出来ることは出来る、出来ないことは出来ない。
自ら蒔いた種は自ら刈り取る。
目の前の事は全て自らの映し出し。

感情(小我)より理性(大我)で思考する。


何冊も本も読み、何度も講座も受けている私でも、きっと一生の内に完全に真から理解は出来ないだろう。奥は深い。
来世への課題の持ち越しは必須。

誰しもが未熟だから生まれて来る。
この世は未熟者の祭典。
理解した様でいて傲慢さは現れて来る。

…んでもって、
そんなスピリチュアリズムを軸に少年との事を考えてみた。

私と彼の人生の交わりは、お互いのカリキュラムやそれぞれが拓いた運命の結果であり導きである。

彼は通常より複雑な家庭(共に学び合う学校のようなもの)をわざわざ選んで生まれてきた。
それほど勇敢な魂の持ち主かもしれない。
或いは因果として、蒔いた種を刈り取るが為の宿命かもしれない。
それは単純なものではないし理解の範疇ではないので想像するしかない。

その影響からくる性格や習性。

それをそのまま携えて生きるのも、色んなキッカケで気付き変えていくのも彼自身が作って行く運命。
そのキッカケの一つが我が家との出会いであり、また私や家族達にとっても同様に、彼が来た事によって気付いたり試行錯誤したりの経験を重ねる事で学ぶカリキュラムがあるのだと思う。

お互いに磨き合う関係。
考えてみたら、正に家族ってそういうものではないか。

お互いがそれぞれに自律していく為の磨き合い、学び合い。

失敗しないようにとか躓かないように…とかより以前に、「学ぶためなら、それが必要ならば、躓いても良いさ。」という気持ちで行こう。大抵の人間は経験からしか学べないのだから。
因みに、スピリチュアリズムの先生は、
「転んでも饅頭つかんで立ち上がれ!」
とよく説いている(笑)。

大我からの思考、言葉、行動かどうか常に顧みる。

少年が理解するかはともかく…もっと噛み砕いて分かりやすい言葉で、いつかスピリチュアリズムによる人生哲学を伝えられたら良い。大きな問題を抱えている人にこそ必要だと感じるから。
魂の芯の部分で案外共感してくれるかもしれない。
なぜなら、この世に生まれた瞬間に、皆が忘れてしまっているだけ…らしいから。


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