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書評「本物」ヘンリージェイムズ

「本物」The Real Thing
ヘンリー・ジェームズ

 この作品は、「柴田元幸翻訳叢書 アメリカン・マスターピース 古典篇」に収められている一作である。本には、アメリカ文学の短編が8作収められている。この本はアメリカ文学を試し読みしたいという人に、是非おすすめする。小説の面白さを感じられると思う。柴田元幸さんが責任編集のスイッチパブリッシングから発売されている文芸誌「MONKEY」もおすすめである。この本の存在を知ったのは、「MONKEY」の広告だ。
 本を読む喜びとして、すらすら読めたというのもいいが、私が思う真の本を読む喜びは、手に取った途端にワクワクして、ちょっと読んで、これ絶対おもしろい予感しかしないよって思いながら、読み進め、読み終わった時間に愛おしさを感じるのが、最上の読書だと思っている。たとえ全く実生活で役に立たなくとも、本を開くのが楽しみという読書の喜びをもっと多くの人が知ってくれればいいのに。世の中にはこんなに沢山の本があるのだから、そばにおいておきたい本が一冊ぐらい見つかると思うのにと常々思っている。
 私は、ヘンリー・ジェームズが好きである。アメリカ文学の中でも(アメリカで生まれているが、イギリスに帰化したため、純粋なアメリカ文学というかどうかは人によってわかれる)難解な作家と言われている。研究する人も多く、「ある貴婦人の肖像」や「鳩の翼」などは映画化もされている。どこがおもしろいかわからない人は、わからないと思う。たとえつまらないねと言われてもいい、私は好きだから。評価がわかれるところにますます魅力に感じる。私の読解力で原書を読んだら、解読できないと思う。夏目漱石をもってしても批判的であるから。ジェームズの翻訳の中でも、取り上げる柴田元幸訳の「本物」、行方昭夫訳「アスパンの恋文」、大津栄一郎訳「荒涼のベンチ」が特に好きだ。ジェームズを翻訳することは本当に難しいんだろうなと思う。原書は、訳を頼りに読み進めるぐらいしかできない私だが、好きな作家と言われれば、ヘンリー・ジェームズだと言ってしまう。たぶんジェームズはめんどくさい人な人なんだろうなと思わせる。しつこい心理描写から推測すると、私と性格が似ている。人を見るときに、そこ見るよね、そうだよね、その人の底意地の悪さに気づくよね、本来見過ごしてしまえるところに、ジェームズと同じように焦点を当てるから、合うのだと思う。素直な人には、ちょっと苦痛なのかもしれない。わかりやすい文章を求めてる人には、つまらないと言われてしまうかもしれない。翻訳しても、映画化しても、どうしても面白さが伝わらず、これぞという再現ができないのも、めんどくさいジェームズらしくておもしろい。そこには、そう簡単に理解されてたまるかみたいなものさえ感じる。簡単に手を出すと、大怪我するのだ。死後約100年も経って、めんどくさいよねと言われてるとは夢にも思わないだろう。研究してる人は多いのに、作品に王道のコメントがないのも魅力だと思う。
 ジェームズについては語りすぎてしまうので、この辺にして、取り上げる「本物」について語っていきたいと思う。
 まさに「本物」っていったい何?ということについて書いた短編である。
 ある日、画家のもとに紳士と御婦人がやってくる。いかにも裕福そうな二人である。画家は肖像画の依頼かと浮足立つが、予想と違い、挿絵のモデルに自分達を雇って欲しいと言われる。つまり、彼らには、お金がないのだ。今は、お金がないけれども、きちんとした身分の人のようで、もっともらしく見える。だが、挿絵モデルには、その本物らしさが邪魔になる。すでに雇っている若いモデルの方が、なんでも器用にやってみせる。お茶も出す。使い勝手が良いのだ。本物の絵を書くために、本物は必要ないのか?
 ざっとあらすじを書くと、こんな感じの話なのだが、あらすじを読んだからわかったと思って欲しくない。ジェームズのおもしろさはここからである。タイトルにある「本物」。本物の紳士と挿絵に出てくる紳士。どちらが本物の紳士なのだろうか。読み終わった後、もう一回読み返してみようと思ってしまう。行間を読もうと思えば、いくらでも想像力を働かせることができることが本当の魅力なのだ。
 ジェームズを読んでいると、人をとても観察することに重きを置いているのがわかる。相手がどんな人物であるかをつぶさに観察し、相手の意図を見つけようとする。この細かい心理描写が、ジェームズの一つの特徴だ。この作品では、画家の視点を通し、周りにいる人間をつぶさに観察している。
 まず私が、この「本物」という作品の一番のテーマである一文を紹介しよう。
「本物でないものに較べて本物の方がずっと価値が低いという倒錯した残酷な掟」(ℓ208)
 本物には、本物であるがゆえのプライドがある。それがしぐさにも表れる。しかし、画家が必要としているもの紳士に見えるモデルなのだ。「私が本物よ」と自信を持っていても、それは、挿絵には関係がない。
 飢え死にしたくないから、どんなこともするから、モデルで雇ってくださいと言うが、そんなものは、画家には関係ない。最後の場面では、紳士と婦人からそこにいる人達は、「畏怖の念に打たれていた」(ℓ208)というところまでいく。やっぱり紳士は本物だったのだろうか。
 読んだ人によって、本物と感じるものが違うと思う。本物の紳士がやはり紳士だと言う人、モデルだけでなく、召使にも使え、挿絵にぴったりのイタリア人が本物か、どんな役もお茶出しもできるチャーム嬢が本物か。すぐに答えは出ない。
 私は、この本物を読んだ時に、就職活動やお金を稼ぐための仕事のことを考えた。生きていくには、食べて、住居を用意し、服を用意しなければならない。どうやって生きていくのか。何を捨てて、お金を稼ぎますか?という問いが浮かんだ。
 あれもできません、これもできませんと言い出す人を採用しようとは思わないだろう。仕事で重宝されるのは、紳士ではない。だが、紳士だってお金がなかったら、働かなくてはいけない。自分が紳士であるプライドを捨てられるだろうか。それを見る人は、不憫と感じてしまうだろうか。こんなことをしなくてもいいのではないかと同情されてしまう。そう見られることはとてもつらいことではないのか。紳士が哀れみの目で見られてたら、耐えられるだろうか。
 飢え死にしないために、本物の紳士は、きっとプライドを捨てて、画家の元を訪ねたのだろう。もしかしたら紳士だという自負があったから、挿絵のモデルの仕事ぐらい簡単にやってのけると甘く見ていたのかもしれない。それぐらいできるわと婦人と二人で話しながら、いたのかもしれない。
「そこにはつねに、これはあなたにとって幸運なことなのだという含みがあった」(ℓ187)
 こういう一文が、ジェームズだと思う。仕事しているときに「やってあげてるのよ」という上目線の思惑が見え隠れしたらどうだろう。そんな人の絵を書いても、質が落ちてしまうのは、当然の結果だと思う。画家は、この人たちは本物なのだと自分に言い聞かせながら、絵を描いている。だから、友人に見破られる。
「自分に正直にはなれなくても、僕には正直になってくれないと」(ℓ201)
 そう言われても、画家は紳士と婦人を解雇しない。
 ジェームズは、本物について一元的な見方で書いているわけではない。画家が本物ではないために、本物を描けないかもしれない可能性も残す。
 何を本物と呼ぶのか。読み終わった後も、考え続けさせる。飢え死にしないために、自分のプライドを捨てても、職を得ようとした紳士達は、本物ではないのか。周りの人間に、「畏怖」まで感じさせてしまうぐらいの迫力はあったのだろう。
 ジェームズは人生経験が少ない作家と言われる。退屈で、難解だとも言われる。私は、思う。これだけ人のことを観察して、あれでもない、これでもないと考えながら、生きていたら、そりゃ、行動する勇気は持てないだろうなと。
 そして、100年以上経った作品なのに、今読んでも、お金を稼ぐってなんだろうな。プライドってなんだろうな、本物って何だろうなと考えさせる。身分は低くとも器用な人もいるし、何かと身分を自慢する人だけの人もいる。
 画家の友人ホーリーは言う。
「こいつらは馬鹿だ」(ℓ200)
 本物の紳士に言い放つのである。ジェームズの観察眼の先にある毒が心地良いし、もう一度読み返すと、また違う世界に連れて行ってくれる。
 この作品は、地位や名誉のある人に傷つけられて、この世の中の本当や本物ってなんだろうと少しでも考えたことがあるのならば、楽しんでもらえると思う。
 原文で読めたらいいと思うが、あまりにも難しそうなので、私は、素晴らしいジェームズの翻訳に出会えることを待とうと思う。この「本物」は、行方昭夫氏も訳しているようなので、そちらも読み比べても楽しめるのではないだろうか。ジェームズの本は高いのが少々気になるが、策略や陰謀、人の観察、細かい心理描写が好きな人なら、読んでいて楽しいと思う。中期の作品である「ねじの回転」もおもしろい。ジェーイムズを楽しむおすすめとしては長編にいきなり挑戦するより、今回の中期の短編あたりから始めるのがいいのではないかと思う。是非、ジェームズのめんどくささと「えーっ」というストーリー展開のうまさを感じてほしい。

(よき読書を!)

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