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「珈琲ロンリネス」1話完結

 孤独を気取るなら、まず珈琲を頼むが良い。珈琲が運ばれてくる前に、見晴らしの良いこの喫茶店で海を見るが良い。海は、寂しさも楽しみも波に乗せて連れてくる。押し返したり、引いて行ったり。ざぱんざぱんと。まれに優しくいったりきたり。まるで隣人のように。
 海から目を離し、ときどき珈琲が運ばれてくるまでのマスターのしぐさに目をやりながら、店内を見まわす。
 私と同じように、珈琲の香りを楽しみ、満足そうに時間を楽しんでいる女性がいた。年は、私より若いだろうか。男の私にはファッションのことはわからないが、品の良い服を着ている。今日は、会社は休みなのだろうか。それとも主婦なのだろうか。人のプライベートを詮索する気はない。想像の中で近づいてみたいだけだ。もちろん想像さえも嫌がられれば、すぐに引く準備はできている。
「今日は、これから一雨降りそうですね」
 マスターがテーブルに珈琲を置きながら言った。
「そうですね。傘が必要のようです」
 ほぼこれぐらいの会話しかマスターとしたことはない。
 隣人との距離は、これぐらいがいい。軽い挨拶を交わすぐらい。マスターの学歴も、妻がいるかどうかも、子供がいるのかも知らない。本好きなのは知っている。他の客との会話を盗み聞きするぐらいが良い。それぐらいがいい。私のおすすめの本を紹介したりもしない。
 書店のカバーのかけられた旅行体験記を、珈琲を嗜みながらいただく。
 ふとさきほどの女性が立ち去った席を見ると、ポーチを忘れてしまってるではないか。
 女性は、会計を済ませ、私の横のガラス窓の前を通りすぎていく。
「ちょっとこれをさきほどの女性に届けてきます」
 マスターにそう告げると、私は走った。
 ちょうど少し走ると、女性は、横断歩道の信号で止まっていた。
「あの、すいません、さきほどの喫茶店で、これをお忘れです」
「えっ?」
 女性が鞄の中を確認する。
「そうです。私のものです。追いかけてきてくださったのですか?大切なものなのです。ありがとうございました」
「良かった」
 私はそれだけ告げると、喫茶店に戻った。
「どうでした?」
 マスターが声をかけてくる。
「追いつきました」
 私は、女性とマスターのとびきりの笑顔を今日、二つ手に入れた。
 その出来事から一週間経った頃、またその女性と同じ喫茶店で一緒になった。近くでイベントが行われるために珍しく混んでいて、図らずとも隣の席しか空いてなかった。
 ぺこっと女性は、私に気づき、挨拶してくれた。
「こないだはありがとうございます」
「いえいえ」
 しばらくそのまま互いに自分の珈琲との時間をそれぞれに楽しんでいた。
 突然、女性が話し出した。
「あのポーチはとても大事なものなんです。本当に助かりました」
 そう言った。まだ女性は話したいようで話を続けた。
「あのポーチを一緒に選んでくれた彼が、こないだ転勤で東京へ行ってしまったのです。それでぼーっとしていたのかもしれません」
「それは、」
 なんと続けるべきだろうか。急に女性とぐっと距離が縮まった。
「あっ、こんな話、困らせますよね?」
「そんなことはありませんよ」
「ポーチを見ながら、思い出を振り返っていて、鞄から出したことを忘れるなんて。彼のことも忘れてしまえということなのかしら」
「ポーチはあなたの元へ返りました」
「そうですね。何を読んでいらっしゃるんですか?」
 私の本について彼女は尋ねてきた。
「旅行記を」
「ご旅行お好きなんですか?」
「読むのが好きなんです」
「そうなんですね」
 気の利いた言葉の一つも言えない男だと反省した。
「あっ、バスの時間になってしまいました。読書のお邪魔をしてしまいまして、すいません。本当にこないだはポーチをありがとうございました」
「いえいえ。私は何も」
 女性は、会計を済ませ、私の横のガラス窓を通り過ぎていった。
 その後、女性に会うことはなかった。
 一か月ぐらい経っただろうか。私は思いきって、マスターに彼女のことを聞いた。常連だったはずだから。会計のときにいつも値段を言われる前に、財布からお金を出していたから。
 珈琲を持ってきたマスターに、
「だいぶ前にポーチを忘れた女性は、もう来てないのかな?」
「ああ、彼女ならこの町を出て、東京へ引っ越したよ」
「そうか」
「タイプだったのかい?」
「まあね」
 運ばれてきた珈琲を飲みながら、打ち返す波を見つめた。
(おしまい)

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