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なぜラジオにメールを送るのか

自分はなんでラジオにメールを送るんだろう。ふと考えた。

ここまで約40文字読んで、送ったことのある人は「自分はどうだろう」とか考えただろうか。

『読まれたいから』

『番組を盛り上げたいから』

『読まれてる人が羨ましいから』

いろいろあるだろうけどすぐに出てくるのはこの辺か。ちょっと慣れ感が出てくると『番組が続いて欲しいから』とか『話題に合う内容が浮かんだから』『日常的に考えていて、送り先を後から選ぶ』とかもある。みなさんはどう?
他にもあるかもしれない。あると思う。なぜならここまで挙げたのは、あくまでわたしが感じたことがあるものだけだから。なんかあったら教えてネ。


※ここではニコ生でもYoutube配信でもなんでも、メール投稿文化があるコンテンツはぜんぶひっくるめて「ラジオ」と括ることとする。


はじめてラジオを聴いたのは小学生の頃。メールアドレスを手にし、はじめてメールを送ったのが中学生の頃。気づけば人生の年表の過半にわたって「ラジオ」と書かれた長いテープが貼ってあるが、はて、なぜわたしはメールを送っているのだろう

さっき挙げた中にわたしの答えが明確にあるかというと、なんか違う。全部そうだけど、どれか単一の理由が特別に強いわけでもないし、時によって当てはまらないものもある。


最近、自分の答えにたどり着いたので、実際の通り道を辿って書いてみる。


送るのが日常の人たち

毎日いろんな番組でラジオネームを耳にするような人たちがいる。そういう人たちはおそらくそれが日常で、かつ生活の中心に近いところにあるのだと思う(自分がそうでないので印象の話)。

わたしは一番多かった時でようやく年30番組250通とかなので、(この数字は"そうでない人"からしたら"そう"見えるかもしれないが、)そこまで日常とか、生活の中心っていう感じではない。だからこれは答えにならない。

(余談だけど、そのレベルのうち話聞いたことある人だと年1000とか2000とかって言う。1000だと週に20通弱→毎週番組10本に対して回あたり2通のペース。2000だと5通/日とかになってきます。ひょえー)



推しのやってる番組のとき

「推し」が原動力になっているときは割と話が簡単。

『推しにメールを読まれたい』
『推しの番組の常連になりたい』
『推しの番組が長続きしてほしい・推しのラジオを聴きたい』
『推しの番組にいつもメールを送るファンで在りたい』

だいたいこういうところで、理由は全部「推し」である。わたしはラジオ趣味と別の話として声優の推しがいるので、上に書いた理由も思い当たる。
しかしこれは話の土台が「推し」であって、ラジオはその上の中小カテゴリである。

知り合いの声優ファンの多くは「ラジオだから」ではなく「推しだから」メールを送る。そのため「自分がなぜ送るのか」話は、声優ファンの友人と語る機会がなかった。なぜなら聞かずとも「推しだから」を根底にした回答が来るのがわかりきっているから。
「推し活」として送っているときはこれが答えだけど、わたしはそうでないメールのほうが多い。これはわたしの求める答えでない。



別に推しの番組じゃなくても

推しの番組じゃなくても、いつも聴いている番組でなくても、メールを送ることがある。目当ての番組の前後に"流れていた"番組とか、フォロワーがTwitterでURLを貼っていたのをなんとなく見てとか、そういうとき。

これの場合は最初に挙げたやつ―

『読まれたいから』
『番組を盛り上げたいから』
『読まれてる人が羨ましいから』

―のどれでもない。
推しが出ているわけでもなければ、いつも聞くラジオネームが連なるわけでもないし、その時聞いた回で最終回ですと言われても何も困らない。もちろん読まれなくても悔しくもないし、読まれてめちゃくちゃ嬉しいまで行くこともない。じゃあなんで送ったんだろう。

強いて言えば『内容が浮かんだから』が近い。番組を聴いていて、メールが浮かんだから送った。
この先に答えがありそうな気がする。アマゾンの最奥地は近い。



ラジオのある日常

メール職人のくだりでわたしは「そこまで日常とか、生活の中心って感じじゃない」と書いたけど、それはあくまで「メールを送ること」についてであり、聴くこと自体はけっこう日常である。

遠征先のホテルの部屋についたら、radikoとかをつけて、ホテルの部屋を「ホーム」にすることがよくある。あとは部屋の掃除をしているときとか、とりあえず何か流す。こういうとき、番組は別になんでもいい。なんなら喋ってる人が誰なのかも知らない。掃除機の音で掻き消えたりもする。

ずっと聴いていた番組が惜しくも最終回を迎えた後、とくに「日常」である(あった)ことを感じる。曜日と時間が染みついているから、番組のことを思い出してしまう。



送るということは、聴くということ

聴かない番組にはメールを送らない。聴くから送るし、送るから聴く。先程のたまたま聴いた番組に送ったメールだって、たまたま聴いたから送ったのである。そんなのは当たり前体操。でもこの当たり前体操をしてみたら、アマゾンの最奥地への道が見えてきた。

ラジオは「聴く」ことが(経済学的な意味での)消費にあたる。テレビ・映画や舞台・コンサートも鑑賞という点でだいたい同じ。
メールを送るのは、これらのコンテンツの、ただ消費するだけでない、その先にある何か。

では「メールを送る」とは?



ラジオにメールを送ること

"おたより"(メール・はがき・FAX)というのは、ラジオ特有の文化であり特色である(テレビも昔からFAX募集とかあるけど一旦置いとく)。

ラジオは双方向コミュニケーションであると、どっかのラジオで聞いた。
パーソナリティが話し、リスナーがそれにリアクションを返し、メールコーナーを通してパーソナリティが返事をする。間接的に、リスナーはパーソナリティと同じ場所でコミュニケーションを取っている。メールを紹介されることによって、かわるがわる色んなリスナーが番組に参加している。これがラジオの大きな特徴。つまり、

メールを送ることは、番組へ参加することである。

ラジオは実は、ただ発信されているだけでない。消費者参加型の双方向コンテンツである。

(とはいえ聴くだけのひとが番組に参加していないとはわたしは思わないので、ここでは「積極的参加」と呼ぶことにする)


これを読むであろうレンジには声優ファンが多いので、ペンライトを振って応援するようなライブに行ったことがある人が多いと思う。
ただライブに行くのが「参加」であれば、『拍手をする』『ライトを振る』『声を出す』といった応援・声援が「積極的参加」にあたる。
「ファンの声援もライブの一部」とか、「ペンライトも舞台装置のひとつ」とか表現されたりするが、まさにこれ。よく言う「一緒にライブを作っている」のやつ。

同様にラジオにおいてメールを送ることは、一緒に番組を作っていることになる。この話も実際、ラジオ好きなパーソナリティやスタッフからたびたび語られる話である。



わたしはなぜラジオにメールを送るのか

その答えはずばり、ラジオへの積極的参加であった。

参加と積極的参加には、いろいろ思いつく。

野球を内野席でのんびり見るのか、外野席で声出して応援するのか。
ライブに行くときに、チケットだけ持って行くのか、推しグッズを装備してペンライトも持って行くのか。

ラジオにおいては、聴くだけの参加とメールを送る積極的参加とがある。

さらにかみ砕いて言うなら、ラジオへの積極的参加とはすなわち、メールを介してパーソナリティとコミュニケーションを取ることである。

たまたま聴いたラジオで今日の昼ごはんの話が投げかけられていたので、「わたしはハンバーガー屋で今日からの新作を食べましたよ!」と返した。『いいなあ!最近行ってない!そろそろ月見のシーズンですよねえ』と返される。そういう「コミュニケーション」

そして「なぜ」の部分は、身も蓋もないこと言うと「ラジオだから」という答えになる。ちゃんと言うなら、「ラジオがそういうものだから」「ラジオが双方向コミュニケーションコンテンツだから」


さっきこう書いた。

ラジオは「聴く」ことが(経済学的な意味での)消費にあたる。

(とはいえ聴くだけのひとが番組に参加していないとはわたしは思わないので、ここでは「積極的参加」と呼ぶことにする)

逆に言い換えると、ラジオへの参加とはラジオの消費であり、積極的参加は積極的消費といえる。ライブでペンライト振るとか、外野席で声出すとかも、積極的消費といえると思う。

つまりわたしは、ラジオというコンテンツを積極的に消費するため、メールを送っているのである。……説明のために経済学の語を使ったけど、やっぱり味気ないな。わたしはラジオに積極的に参加したい。これがわたしの答え。


そして、なぜ積極的に参加したいかは言うまでもない。



ラジオが好きだからである。




これは実はメール概論ではなく、フタを開けてみればラジオ概論なのであった。その人にとってラジオとはなんなのか、の話である。

fin.




おまけ

※ここではニコ生でもYoutube配信でもなんでも、メール投稿文化があるコンテンツはぜんぶひっくるめて「ラジオ」と括ることとする。

さらっと書いたこの注釈だが、これにもポイントがある。

「ラジオがそういうものだから」と書いた。逆にそういうものは「ラジオ然としている」と考えられる。
「双方向コミュニケーション」は抽象的なので具体的に書くなら、「メールを募集し、それを紹介しつつ話す」といったコンテンツが「そういうもの」で、ラジオ然としている。
「動画付きラジオ」という言葉があるが、これに違和感がないのも「ラジオ然としたもの」としてラジオと呼ばれているからだと思う。

「ラジオ」とは辞書的に言えば「音声を無線で放送するもの(、またはその番組、受信機器)」となるだろうが、ここでの「ラジオ然としている」というのは、メールを募集・紹介するという参加型コンテンツの代表の意味でラジオが挙げられている形になる。

"ニコ生でもYoutube配信でもなんでも、メール投稿文化があるコンテンツはぜんぶひっくるめて「ラジオ」と括る"と前置きされたとき、違和感を感じた人はいるだろうか。
もしいるならその人はラジオという言葉に「音声媒体であること」が紐づいているんだろうと思う。辞書的な定義の方。
逆に違和感を感じなかった人は、メールを募集・紹介する番組が「ラジオ然としている」と既に認識しているんだと思う。

そういう「ラジオ然としている」の意味で、声優ニコ生もyoutubeも、時にはインスタライブもわたしはだいたい「ラジオ」と括るし、日常にも含まれる。もちろん「ラジオが好き」にも含まれている。


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