ただのぼやき日記です。
書くことないなぁ……、ないけど、文章を書く習慣はやっぱりつけたいから、とにかく何でもいいから書こう。と思い書いています。
コロナが気がかりなので出かけることもない。休職中なので書き留めるような出来事もない。久しぶりにnoteに向き合いましたが、書くことがなさすぎてちょっと途方に暮れました。
WHOが、2年以内の終息を見込んでいるようですね。やっぱりそれくらいはかかるのかぁという思いと、本当に2年で収まってくれるのかという不安。まだまだ生活に大きな影響が出ている中、希望の光はなかなか大きくはなってくれませんね。
経済力の差にかかわらず、今年は多くの人が我慢と不安を強いられる年になりそうです。そして来年以降も、多かれ少なかれそうなるでしょう。長期にわたり生活が不安定になると、余裕がなくなり、社会が殺伐とします。現に報道では、店員を罵倒したり人の移動に対して非難するなどの事例も多く見受けられます。日々わたしたちは、少しずつ少しずつ心身ともに削られていっているように思います。
その根底には、自分が感染したら生活がままならないという不安や、社会的に批判を受けるかもしれない恐怖があります。そして、1番大きいのは「誰も自分を助けてはくれない諦め」だと思います。感染拡大を阻止するための行政の措置は「自粛」。あくまで個人の裁量で可能な限り「自己責任」で活動を制限するべし、と言われているのです。そしてそうなっている以上、私たち国民は自粛しなかった者たち個人を責めてしまいます。感染者本人がどんなに気をつけていたとしても、ほんの少しの隙を追及します。いつの間にか、感染者は加害者扱いになってしまっているのです。本当はウイルスの被害者なのに。
この殺伐とした社会があと2年は続くかもしれないと思うと、わたしはコロナより恐ろしく感じます。公共による支援が充分に得られず、自己責任だと非難されて苦しい思いをする人が、まだこれからもたくさん出てくるかもしれません。感染自体はウイルスの仕業です。しかし社会的な苦痛は「人災」です。ウイルスと闘わなければならないいま、国民同士で傷つけ合うなんてしたくない。まだまだ長期戦になる中で、お互い支え合う道はないのかと悩みます。
公共や国民が、同じ方向を向くことはできないのかと。
政党同士が喧嘩してる場合ではない。
国と自治体が責任をなすりつけあっている場合ではない。
国が国民から搾取してる場合ではない。
国民が国を見放してる場合ではない。
国民が国民を踊らす場合ではない。
国民同士が監視しあっている場合ではない。
ひとりひとりができることをやりながら、周りを見て助け合うときなんだと思う。そして、それは不可能ではない。
今を生き抜くことに必死な人に、出来る人は手を差し伸べるべきだ。必死な人は、それにしがみつくべきだ。
今はなりふりかまわず、生き延びるんだ。
わたしも生き延びる。いまをなんとか生き延びる。みんなもなんとか生きてる。
だから、諦めずに訴えよう。
みんなで支え合いながら乗り越えようと。行政は国民に支援を。国民は国民に監視ではなく、助け合いのまなざしを。
綺麗事だけでは乗り越えていけないけど、綺麗事だって必要だ。
わたしは諦めない。
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