見出し画像

今どこにいてこれからどこへ向かうのか、組織はFrom-Toで見る

 組織というものに向き合っていると、つくづく組織は人のようだと思う。元気よく走っているときもあれば、風邪をひいてあちこちが悪くなるようなときもある。体の調子のように、組織の状態もときともに変わっていく。

 個人であれば自分の体に耳を傾ければある程度自分自身に何が起きているか想像できる。組織が厄介なのは、個々人を見て、聞いて、総体として捉えなければならないから時間がかかることだ。分かりにくい。

 組織としての目標を立てないということはあまりないだろう。どこへ向かっていきたいのか総体としての意志を、個々人として理解するためには行き先は言語化出来たほうが良い。仮に、意志の言語化をしないままであることを選ぶならば、ばらばらの総体としてどう歩いていくのかが必要になる。

 われわれは、ばらばらのまま好きなようにあって、それでいて社会の期待に応えられるような総体としての動きを取れるほど練度を得ていない。結果がでているように見えたとしても、果たしてそこに再現性があるのか。そういうものを「たまたま上手くいっている」と呼ぶ。

 組織をほったからしにて、野ざらしにしていても上手く機能するような幸運も練度も無いとしたら。期待される結果を導くためのマネジメントとして何が求められるだろう。

 もちろん、あんまり仕組みすぎると、マネジメントのための管理が必要と、屋上屋を重ねることになっていく。細やかな働きかけが必ずしも健全なわけではない。このあたりも、組織は人と近しい。

 少なくとも、組織を見るにはFrom-Toのものさしを用いよう。今どこにいて、これからどこへ向かうのか。A地点からB地点へ。そこだけを見る。シンプルでしょう? 多くの場合、Toしかみていないところがある。こうありたい、こうしたい、あれをやればいいのではないか、海外では他社では云々。

 先に述べたように目標が組織の舵取りの役目を果たすように、Toは必要だ。どこへ向かいたいかがぼんやりしていると、私達は道に迷い始める。ただ、Fromがどこにあったかを忘れてはならない。他ならぬ自分たちの今の立ち位置はどこか、と。何ができて、何ができないのか。どれだけの余力があるのか。

 今に目を向けすぎると、現状に引っ張られてToがおけなくなる。それは然りで、Toを講じる際はFromは一度忘れてよかろう。Toを置いたあとに、私達は何をこれからはじめるべきか、あるいはやめるべきか、方針を講じなければならない。これがまさしくFromとToの差分を埋めるための方策となる。

 このとき差分が現実離れしているようであれば、やはり私達は道に迷い始める。差分を埋める方策が現実離れするようなら、Toの見直しを行う。少なくともA地点からB地点へ、それからC地点へと。段階の構想を描く。

 こうなったらいいなという希望的観測だけで踏み出してとんでもない結果に辿り着いたことは一つや二つあるだろう。「やってみよう」で踏み出す一歩は価値があるが、「やってみよう」だけで最後のToまで辿り着こうというのは、無謀だ。

 そんな常に手ぶらな人生って送ってないよね。組織も人と同じだ。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?