「全体と詳細を行き来する」の罠

市谷 聡啓 (papanda)

 「全体像が分からない」というので、線表なり何かの構造図を描いたりする。一方で、「全体は何となく分かるが具体が分からない」というので、全体を表したものを今度は分析的に詳細化していく。

 十分に、これでもかと詳細化を果たす頃には、全体を表していたものは用無しになる。詳細でもってすべてを表せるようになったのだから、もうざっくりした線表も構造図も要らない。これからは詳細の世界でやっていこう。

 ところがだんだんと辛みが増してくる。少し状況が変わったり、判断を変えるだけで、詳細を現実に追いつかせるのに苦労する。詳細なスケジュールはその後のメンテナンスが大変になる、という代表的なアレに直面する。管理のための作業という感じで本質的な仕事ではない。

 やがて、詳細を表すものは朽ち果て見向きされなくなる。そうなるとやはり状況がよく分からなくなるので、認識齟齬や抜け漏れのトラブルも増えてくる。いくらなんでも何か全体を表すものが必要になるだろうということで、冒頭に戻る。「全体像が分からない」

 結局のところ、物事や状況を捉えるのに一つの見方では足りない。詳細はある時点における認識をきっちりと合わせるためには必要だが、相応の時間軸で捉え続けるのには向いていない。全体は俯瞰の役には立つが、それ自身だけでは具体的な行動まで合わせることができない。

 全体と詳細では役割が異なる。だからどちらかだけではなく、それぞれが必要になる。それぞれを通じて見るべきものが違う。そう考えると、全体を微細に分けたものが詳細であり、詳細をまとめあげて表現したものが全体であると捉えることにあまり意味を持たせる必要もないかもしれない。

 私達は自然と全体と詳細の論理的な整合性を取ろうとする。だから、捉える対象が大きくなるほどに苦労する。全体と詳細が常にきっちりと繋がりをもって構造化されている、という状態を作るとすっきりはするが、だんだんと管理のための仕事以上にはならなくなる

 全体を俯瞰したときに自分たちが思っているように事が進んでいるか、詳細を捉えられてこれから先何をするべきかの認識が合わせられているかに価値があるわけだから、それぞれが満たせた上で全体と詳細の繋がりを必要なときに捉えられれば良い。

 だから、全体を俯瞰するための機会として「むきなおり」、詳細を捉えるための仕組みとしてスクラムを適用する。

 「全体と詳細を行き来する」という言い方も、全体と詳細で論理的な整合性を取るというニュアンス以上に、まさしく「行き来する=常に同じ状態ではない」のほうに核心があるように思う。

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市谷 聡啓 (papanda)
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