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自分から「分かったこと」を伝える

 「いつものミーティング、いつものようにぼんやり参加しておけば良いかな」なんて思うくらいなら、おすすめしたいことがある。とりあえず「そうそう」と言うことだ

 なんとなくその場での自分の貢献どころがはっきりと見いだせない。そんなシチュエーションでただ誰かの話を聞いて、カメラオフしたオンラインミーティングでひとしきり頷いていたとしても、貢献はおろか存在すらしていたのかあやしくなってしまう。
 最初から、最後まで一言もその場に残さなかったとしたら、その時間にはどんな意味があったのか。「知る」ということに意味があったのならば、議事ログでも、動画でもあとで見返せば済む。もちろん「参加することに意義がある」なんて、忖度いまさら要らないだろう?

 これは個人を責める話ではない。そもそもオンライン会議へ主体を移行したことで、会議参加の敷居が格段に下がっている。その手の会議が相対的に増えただけの話だ。
 最初から参加の是非が分かりやすければ良いが、前もってどういうアジェンダになる分かるような会議も少なく、「とりあえず参加しないとダメそう」という会議が減っていくことも少ない。

 という中で、やれることはある。大いにある。いかにしてその場をプラスの方向へと持っていけるかに焦点を当てればいい。場というのは、集まって何となく議題、議論をなぞっていれば、沸き立つようなアイデアや前のめりになるような後押しが得られるわけでは、無い。なぞるだけの会議は、単に回覧板を回し読みしているのと変わらない。
 場には流れがある。この流れがプラスなのか、マイナスなのかによって、その場から得られるものが変わり、その後の動きが大きく変わる。

 誰かの意見にアイデアを重ねる。誰かの取り組みがより上手くいくようにフィードバックを挙げる。あるいは致命的な失敗とならないように、過去の知見を参考例として出す。いずれも、その会話を発端として、その次の何かが生まれる契機となる。その入り口は簡単で、「そうそう」「そうですよね」の相槌を放つことだ。まずそこからはじめる、たいていの場合そこからなら始められるはずだ。

(もちろん何もかも肯定せよという話ではない…と言いつつも、完全なる的外れでもなければ何にでも可能性はあるもの。まずは「そうそう」と言い始めて、後から何がそうなのかを説明しようとしてみる、という応用もある)

 場におけるプラスとマイナスの違いは、そこが活力を与えてくれるか、逆に奪い取られてしまうかだ。そもそも、場で何かを表明し、説明し、合意を得て、さらなる協力を得ていくということ自体に、相当なる意志の消費が伴う。
 そこに「そうそう」という言葉が添えられてくるだけで、活力を得られる気がしてくる。錯覚でもなんでも良い。その次の言葉、その次の行動が得られるのであれば価値がある言葉になる。「そうそう」は極めて安価な活力創出の永久機関になりうる。

 相手の表明、説明を品定めして評価の一つ二つ与えるのではなく。自分から「分かったこと」を伝える。話を聞いて、なにが分かったのか。自分の過去の経験や専門性、価値観を結びつけて、分かることを探す。そうして、自分の理解を言葉にして伝えることが最初にまず出来ることのはずだ。

 それは、互いの活動をbut(「そうではなく」)ではなく、and(「そうそう!(そうなので)」)で繋いでいくことに他ならない。意欲的な取り組みほどはじめてのことであったりする。上手くいかなかったり、大した結果にならないほうが多いはずだ。そんな状況で単に否定を重ねて行けば、勇気づけられるどころか萎縮してしまう。その次の活力まで根こそぎなくなりかねない。
 小さな改善のために人の意欲を失うくらいなら、小さな失敗や齟齬を許容して人の後押しへと回ろう。本質として重要なのは、他者とともにする場、時間を「プラスに働く」ものへと意図的に持っていくこと、そのこと自体を場にいる人たちと協働で行うことである。

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