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知りたかった「全体性」とは何のことだったのか。

 いろいろな局面で「全体(像)がわからない」という話がよくあがる。プロダクトを作っていて「このプロダクトの全体像が分かっていないので、全体に基づく意見や判断ができない」「何を作ればよいか見えていこない」。

 あるいは、プロジェクトを進めていて「このプロジェクトの全体が見えていなので、今何をすればよいか分からない」「これで良いのかどうか分からない」。どちらも対象は異なるが、同じ中身と言える。

 全体像が分からないのは問題だから、合わせよう、可視化しよう、そのためにXXXをして、という展開にする。何かしらのワークショップをチーム、関係者で取り組む。取り組むのはインセプションデッキかもしれないし、ジャーニーマップを作ることもあるし、ふりかえりやむきなおりを実施することが該当することもある。

 やってみると、一定の効果を感じる。分かっていなかったことが分かる。その理解の差分に、やってみてよかったという効果を感じる。

 ここまではそのとおり。「全体なるもの」を理解しようとする取り組みは行って然るべきだ。理解しようとする過程において、個々が知らざることを把握できるとともに、その理解の中身をチーム、関係者で共通にできる。理解が一致していると、その後の判断や行動が整いやすい。

 ただし、そうは言っても「全体性」というものは、便利な妄想でしかない。概念としては理解できるが、具体としての「全体」とは何か? どこからどこまでを指すのか。その場にいる人たちの理解の総和が「全体」なのか? だとしたら、まだ誰も理解していないことは「全体」には入らないのか。そうした不完全な「全体」を用いて、次にやることは本当に合っているのか? 「全体が分かる」というよりは、「今の理解をあわせる」ということだったのでは?

 組織の全体性も、プロダクトも全体像も、そもそもそんなモノはない。あるのは、その時点で確認しあえた、そのひとときにおける「共通の理解」のみ。

 つまり。一度で終わりではなく、合わせ続ける必要があるということだ。何かに取り組む限り、終わり無く。

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