「自分が憚らず言えることはなんだ?」というものが「芯」
平鍋さんと対談した。
緊張するなんていつぶりだろう? というくらい、久々に自分の話し方が辿々しくなっているのが分かる。それはそうだ。平鍋さんは、私にとって「始まりの人」なのだ。同時にそれは私だけではない。日本の多くの、アジャイルを志向した人たちにとっての「始まり」なのだ。ミスターXP、日本のアジャイルの「おとっつあん」。
いまだに印象が残ってる話がある。平鍋さん独特の価値観が垣間見えるもの。
私も本を書くようになって、今からこの一節を読むとまた味わいがある。これは僕の言葉や、その意味するところ。言葉が同じということは、アイデンティティに通じ合うところがあるということ。
俺の気持ちを分かってるやつが他にもいる、という喜び。そして同時に、俺こそがという思い。後者は示威から来るものではない。分かり合える仲間であり、好敵手と出会えたときの気持ちの昂ぶりなのだ。
対談は、日本のアジャイルのタイムラインをラフに書くことからはじめ、アジャイルとは何か、組織とは何かという話へと至った。有り難いことに、一部始終をグラレコにまとめてくださる方がいた。
平鍋さんとの話を終える時に、一つ聞こうと思っていたことがあった。
これまでを振り返ってみると、かつて私にはともにアジャイルを語り合う先輩諸氏や仲間が居た。様々な人達から沢山のものを貰ってきた。ところが今や、あの頃ともにあった仲間たちと集うことも出会うことも無くなってしまった。20年の時を経て、ふと思いがよぎる。
「アジャイルを信じて、躍起になっていた、あの頃の"俺たち"は、幸せになったんだろうか。」
私は常日頃、「物語」を思い描く。人と人との関係も、人生も「物語」として捉えることができる。「物語」として捉えることで、少しだけ「これから先」を予言のように描き、現実へと近づけられる気がする。
"俺たち"の「物語」はどうなるのだろうか。一人一人にとっての良い話になって欲しいと思う。特にあの頃、所属する組織も年齢も越えて、夜な夜な語り合った戦友とも言うべき者たち。
この物語はやがて、レクイエムになるのかもしれない。それでもいい。あの時、"俺たち" は思いは様々なままに、確かにある方角へと、同じ方向を向いていたよな、と。今となっては頼りない記録しかなくとも、記憶までは失わないように。想い続けている。
そして、今ココのことを思う。
私が今、あの頃の先輩諸氏の役割を果たせている気はしない。それでも思いだけは、あの時良くしてもらったことを次の人に送っていくことを胸に、動いている。
血気盛んで、思い先行で、面倒くさいやつだった私を、先輩方は相応に相手にしてくれた。今思えば、あの時の人との関係があったから今ココの自分が間違いなく居る。
だから、今度は自分がどこまでできているのか、と気にかかる。血気盛んで、思い先行で、面倒くさい子と出会ったとき、私はどんな言葉を彼、彼女たちにかけ、どんな後押しが出来るだろか。
そうして、私も齢を重ねて。自分勝手に、あと6年と期限を置いてその時までと、自分のほうを励まして生きている。
「これで良いのか。」
気がつけば、その問いに答える役回りになって久しい。その問いを私が他者に発することはない。でも、ミスターには聞ける。これで良いんですかね、と。
その問いを、最後にと思って取っておいた。その前に聞いた「平鍋さんにとってのシンの一字はなにか?」の質問。平鍋さんのシンは、なんと「芯」だった。
この一字を示してもらって、もはや聞くことはなかった。聞くまでもなかった。
平鍋さんとまたしばしの別れ。幸いにして、それぞれで歩む別の道がある。その別れに私が選んだ言葉は「各自頑張れで」だった。お互いにおいて、ご武運を。
ありがとう平鍋さん、そしてさようなら。また会う日まで。
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