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あっちいったりこっちいったり

ニンテンドースイッチのリングフィットアドベンチャーが習慣化したり(昨日30日目を迎えた)

Netflixの『梨泰院クラス』を続けて2周観たり(さすがに3周目にはいかずに『愛の不時着』を観ようかと思っている)

その影響で韓国料理を作ってみたり(チャプチェとかプルコギとかスンドゥプとかって単語はなんとなく聞いたことはあったけれどよく知らなかった。実際に自分で作ってみたらよく理解した)

スンドゥプは肉豆腐チゲなんだけど、普段は朝食に味噌汁を作っているが、スンドゥプは味噌汁変わりにもなるし食卓の変化にもなることを知ったのは収穫だった。食べきれなくてもうどんを入れて食べれば美味しい。

っていうことを知ったのも韓国ドラマを観るようになったからで、今の世を覆う感染症がなければNetflixに契約をすることもなかっただろう。そうでなかったらどんなことをしていただろう。なんて思うのは以前にも増してパラレル感がある。普段目にする風景は同じだけれど少しだけ違う。安っぽいSFみたいだと思うには思うが、安っぽい方が現実的かもしれない。

父が6月上旬に亡くなり、それから日々noteを書いていたのだけど、こないだの連休に四十九日法要を終えてひと段落した。毎日書いていたがふと途切れ、区切りがついて力が抜けた。そしたら急に胃痛がやってきて、昨日今日と酒を飲まないでいる。そもそもが飲み過ぎであることは自覚しているのだけど、『梨泰院クラス』では韓国焼酎チャミスルを飲むシーンがすこぶる出てきて、倣ってチャミスルを調達して(ドラマの影響なのかあまり売っていない)調子に乗ってドラマを観ながら飲んでいたらあっという間に飲み過ぎた。「僕もチャミスル飲み過ぎたことがあるんですよ」とようへいメンバーは言っていて、そんな彼は最近はワインにはまっているらしい。

片付けや諸々の手続きで帰省が頻繁になっている。リモート勤務ができるおかげで実家で仕事する。ひとり暮らしになった母の話し相手であることも大事だと思っている。なのに一緒にいると邪見にしてしまい、後で反省したりする。気持ちがうらはらに、あっちにいったりこっちにいったりする。どうにも気持ちが安定せずに覚束ないことを自覚しているのだけど、それでも良いやと思ってもいる。

法要についてのことをお寺に聞きに行った際、印象に残っている住職の言葉。「身近な人が亡くなる際に、人は正しい判断はしづらいものです」。聞いた時にも納得し、今でもそうだと思う。そもそも正しい判断なんて、今までできていただろうかとも思う。後から納得したり、自分に言い聞かせたりすることの方が多いのではなかろうかと思う。

「その時はガムが食べたかったからガムを買って食べたけど、やっぱりクッキーにしておけばよかった」

「こんなに胃が痛くなるなんてわかってたら飲み過ぎやしなかった」

「あんなこと言わなければよかった」

どうしようもなく愚かしいことはわかっているけれども、きっとこれからも間違うことは間違いない。ためらっても、もたもたしても、それでも「まあよかった」と納得したりする。結果今があり、今居る場所がある。その場所でなければ鳴らせなかった音楽がある。曲作りがしたいとやっぱり思っている。

(ひさとし)

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