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怪獣のようなものがその大きな身体をゆっくりと持ち上げているような感じ

日曜日早朝ランニング。

ランニングもだんだんしづらくなってきた、っていうのは世間の声なのか自分の感じ方なのか。あるいは運動不足解消にランニングをしている人は明らかに増えて、普段の軽いランニングコース・小石川植物園周りは沢山の人とすれ違う。

それはそれでいいんだけど、折角の休日なので気合入れ、かつ時間気にせず沢山走ろうと、5時半起きでいざ荒川へ。

自宅から6kmほどで荒川着。早朝の水辺は本当に気持ち良い。河川敷を黙々と、まったく風景に身を預けながらひた走る贅沢。何も考えない。ただ音楽を聴いている物体(身体)がひた走るだけ。暑くもなく寒くもない、どこまでも走っていける心地がひたすら続いた。

「ランニングを見る世間の目が厳しくなってきた」というのは感じる。じゃあその世間の目ってなんだろう?と思いながら走っているとふと気づいたのは、すれ違いざまに人と目が合うことがあって、それってつまり走っている自分がすれ違う相手の目を見ている、ということだった。その相手の目が厳しく感じられる、ってことならば、じゃあ人と目を合わせなきゃいいんじゃない、ってことで、人と目を合わせずに走れば特に気にもならなくなった。

マスクをしながら走っている人の数も増えてきて、けどマスクをしながら走るっていうのは結構つらいので、人がいなくなったらマスクを外す。ナウシカがマスクを外すのを思い出す。

borads of canada の 2013年の作品「tomorrow's harvest」を聴きながら走った。

この作品はオープニングが「とても大きな獣がじわじわと、ゆっくりと身体を起きあがらせる」みたいなはじまりで、とても好きな作品なのだが、朝の風景によく似合う。それが今のコロナ禍に通じるような気がして一瞬ぞっとした。何か大きな獣、怪獣のようなものがその大きな身体をゆっくりと持ち上げているような感じ。怪獣がこれから何をするのかはわからないのだけれど、何か大変なことが起きるような予感。

聴きながら走りながら考えるのは音楽のことで、今まで作ってきた音楽はそれはそれとして、これから作ってみたい音楽や世界っていうのはもう後戻りはできなくて、かつてのことばかりを考えているよりは前を向いて走っていかなければならないなと思いながら走っていた。河川敷を経てスカイツリーを経て浅草を経て合羽橋のあたりで足が痛くなってきて、そこからはほぼ徒歩で帰ってきた。痛い足を引きずりながら「いったいなにしてるんだろう」と思ったが、結局はフィジカルなことからしか思考はできないので、今はそうやって疲労するのがよいのかもしれないと思った。走りすぎて足が痛いくらいがちょうどよいのかもしれない。疲労してスカスカになった頭で考えれば無駄なことは考えない。むしろ眠くなるだろう。考えすぎて眠れないのではなくて身体が欲して強制的に眠る。予想に違わず帰宅してシャワーを浴びて横になったら寝落ちた。それはまるで幸福なことだった。

(ひさとし)

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