それを目的的にするものづくりと考えるのか、または果報を待つためのよすがとしての縁づくりなのか

初めての楽曲の発表、リリースというものには、なんだかよくわからない高揚があって。そのテンションのまま、見よう見まねのプロモーションに勤しんでいるのです。

やっていると、当たり前の話だけれども、YouTubeの視聴が増えたい、とか、SNSのフォローが増えたい、とか、配信やCDのセールスが増えたい、とか、思う。

でも、まてよ、と、思う。

人口に膾炙するのが目的なのだったら、そこから逆算してものづくりをするべきじゃないの、と。踊りやすい、歌いやすい、シェアしたくなる、もっと知りたくなる、手元に置いておきたくなる。他人事とは思えない。お金を出さずにはいられない。時間をかけずにはいられない。そんなプロダクト。ジャニーズ的な、48的な。はたまたヒャダイン的な、あるいは岡崎体育的な。

作り方がわからないから試しては学びつつ、作りたいものを作りたいように作って、そのあとで、さあこれからどうしようかというのは、そういうプロフェッショナルなものづくりとは、ある種、対極にある。

ややこしいのは、前者が必ず売れるわけではないし、後者が必ず売れないとも限らない、ということなのかもしれない。どこかしら、やむにやまれぬもの、形にはせずにおられなかったもの。個の奥底に沈潜して、その先にあるなにかを掬い取ったもの。結果的にそれが普遍性を獲得する、そんな順番なのではないか。

昨日、物書きの仕事をしているほうの窓口に、新たなオファーを頂いた。随分前に書いたものを読んで、声をかけてくださったらしい。こうしたことは時々あって、そういうことがあると、いつもとても嬉しく思う。ものを作ることは、時間をかけてなにかがかえってくることでもある。

今回作ったアルバムも、きっと思いもしないご縁に繋がるんだろう。果報は寝て待つに限る。そう自分に言い聞かせるんだけど、心の中にはイラチの虫がジタバタして言うことを聞かないのだ。

(ようへい)

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