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自分の問題は、自分で切り拓く以外にない

ひさとしメンバーのエントリを読んで、娘も小学三年生になると、それぞれほんとに、違う道を歩くようになるのだなと思った。

友達を家に呼んで、時には男子も誘ってテンションをあげる姿を想像すると、微笑ましい。うちは、そういうのは全然ない。ただひたすらに、内省的だ。最近は、もっぱら、死と生に興味を持っている様子を見せている。

思えば、自分も似たような感じだった。四年生ぐらいの頃だったか、家の向かいが公園で、クラスメートが毎日遊びに来ている声を、家の中で聞いていた。そこに混じりたいとは思わなかった。混ざらない自分に対する違和感はあったのだけれど。

多分、自意識を過剰にする遺伝子が、自分の家系には埋め込まれているんだと思う。主に、奄美方面から。

自分はなんとな〜く適応して子ども時代をやり過ごしたが、長女はもう少し、大変そうだ。男女の差なのか、時代の違いなのか、はたまた、東京と地方という、環境の違いによるものなのか、わからないけれど。でも、多分、似たような感性を持っている。

色々複雑に考え過ぎて、反応が鈍ったり。かと思いきや、妙にマセていて、早すぎる悩みを抱えてしまったり。心を開ける相手が少なくて、周囲とうまく馴染みきれなかったり。

昨日、児童カウンセラーの方と面談した。曰く、色んな子を見てきて思うのは、誰だって、人生のなかでいつかは直面する課題なのだ、と。遅いか早いかの違いなのだと。確かにそうなんだと思う。

大人になったら、良い友達がきっとできるよ、と、声をかけたいけれど、そんなこと言われても、彼女は、全然ピンとこないだろう。

自分は自分で、母から色々な言葉をもらって育った。そのほとんどは、意味はなかった。

自分の問題は、自分で切り拓く以外にないのだ。

母も自分も、兄も弟も、おそらく長女も、似た資質を持って生まれたが、完全に同じではない。だから、解決方法も、微妙に違う。自分の場合は、わりと馬鹿正直に教えを受け止め過ぎちゃったのだと思う。そんなんだから、ほぼ危篤に違いギリギリの死線から奇跡の復活を遂げた今となっても、ろくに電話もしないし、稀にしたときでも、肝心な会話には至らない。

それでも、と、思う。互いが互いを思う気持ちはある。それならそれで、良いのかもしれない。

本当は、それを言葉にする素直さや器用さがあれば良い。しかし、それがどうにも難しい。ないならないで、それはそれで、良いのかもしれない。自分は長女に対して、幸せになる強さを獲得して欲しいと思う。自分に何かを与えてくれたり、返してくれとは、思わない。母は母で、自分に対してそんな感じなのかもしれない、とは思う。

会話をしたら、いつだって10分後には喧嘩が始まり、いつだってゲンナリする。優しい言葉のひとつもかけられない自分にも、ウンザリする。いつか、自分と長女も、そんな感じになるだろうか。意外とならない気もする。それはまあ、彼女の思春期あたりでどうなるか次第なのだろう。

まあ、どちらでも、良い。病めるときも健やかなるときも、富めるときも貧しきときも。それぞれが、自分の時間を十全に生きることが、できてさえいれば。

(ようへい)

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