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【要約】反応しない練習

どんな悩みも解決できるシンプルな”考え方”

全ての悩みを根本的に解決できる方法があります。
それは、”ムダな反応をしない”ことです。
「反応しない練習」を教えてくれるのは、
古代インドの賢者、ブッダです。その内容は大きくふたつ。

①心の反応を見ること
②合理的に考えること


です。

原始仏教には、”宗教”的な内容とは全く異なる、実用的で、合理的な、現代にも使える「考え方」にあふれています。

ブッダに弟子入りする

悩みを「理解」する

ブッダの考え方の特色は、「人生には悩み・問題がつきものなのだ」という現実を、最初に受け入れてしまうところにあります。

人によっては、「現実を受け入れることは、つらい」と思うかもしれません。しかし、そういうことではなく、「ある」ものを「ある」と理解するだけです。「私には悩みがある。未解決の問題がある」とはっきり自覚し、「でも、きっと解決できる」と考えるのです。
理解してしまえば、「では、どうすれば解決できるか」と、思考を一歩前に進めることができます。

ブッダの考え方とは、悩みがあるという”現実”を見据えて、その”原因”を理解して、解決への”方法”を実践しようという、最先端の医学にも似た明快な処方箋なのです。

人は悩みに直面した時に、つい反応して「闘おう」としてしまいます。不愉快な相手、ままならない現実に真っ向から向き合って、反応して、なんとか変えて見せよう、打ち勝って見せようと、もがき、あがきます。
しかし、この現実は「闘う」という発想だけでは、決して乗り越えることはできません。もっと合理的な考え方が必要です。その一つが「ムダな反応をしない」という心がけです。ブッダがたくさんの方法を教えてくれています。

その問題の「理由」に着目する

人間が抱える不満や物足りなさの「理由」について、ブッダはこう語っています。

苦しみが何故に起こるのかを、理解するがよい。
苦しみをもたらしているものは、
快(喜び)を求めてやまない”求める心”なのだ。

「求め続けて、いつまでも渇いている、満たされない心」を仏教の世界では「渇愛」と表現します。

大切なのは、「心とはそういうものだ」と理解しておくことです。
そして、「求めても満たされるとは限らないのが、心である」「反応してもしょうがない」と理解することをブッダは教えています。

「心の渇きの正体」がわかるだけで、その不満状態から抜けてしまいます。
悩みの理由がわからないと、苦悩はいつまでも続きます。逆に、悩みの理由を正しく理解できると、「悩み」は「解決できる課題」に変わります。

反応せずに、まず理解する
これが、悩みを解決する秘訣です。特に「心の状態を見る」という習慣を持つことで、日頃のストレスや怒り、落ち込みや心配などの「ムダな反応」を抑えることが可能になります。「心の状態を見る」方法は、①言葉で確認する。②感覚を意識する。③アタマの中を分類する。の三つです。

①言葉で確認する。②感覚を意識する。
は、禅の世界では「念じる」、瞑想の世界では「マインドフルネス」と呼ばれています。
③アタマの中を分類する。
は、心の状態を(1)貪欲、(2)怒り、(3)妄想、の三つに分類することです。

(1)貪欲
求めすぎ、期待しすぎ。
焦りや、人間関係の不満は、大抵が「求めすぎる心」です。
(2)怒り
イライラしている、機嫌が悪い、ストレスを感じている時は、
「これは怒りの状態だ」と理解するようにしましょう。
(3)妄想
想像したり、考えたり、思い出したりと、アタマの中でぼんやりと何かを考えている状態です。

「正しい理解」に「反応」はありません。ただ見ているだけです。動揺しない。何も考えない。じっと見つめているだけです。

良し悪しを「判断」しない

人が悩んでしまう理由の一つは、「判断しすぎる心」にあります。
あれこれと「判断」してしまうのは、判断すること自体が「気持ち良い」からでしょう。良し悪しや、正しい・間違っているといった判断は、それだけで「わかった気」になれます。結論が出せた気がして、安心できるのです。
判断が、ただ気持ち良いだけなら、問題ないのかもしれません。しかし、その思いに執着しすぎると、自分か、誰かが激しく苦しめられることになります。

人が苦しみを感じる時、その心には必ず「執着」があります。本来心は、サラサラと流れ続ける小川のように、苦しみを残さないはずなのに、執着ゆえに、滞り、苦しみを生んでいるのです。苦しんでいるのが自分であれ、相手であれ、誰かが苦しんでいるなら、何かが間違っています。
「このままではいけないのだ」と、目を醒ましてください。

「自分は正しい」という判断は、自分にとっては正しく見えますが、ブッダの理解にてらせば、正しいとは言えません。人と人とが関わる時には、必ず見解の違いが出てきます。「これはどう考えても、自分の方が正しい」と考えてしまうこともあるでしょう。しかし、「どう考えても」というのは、自分のアタマで考えたことである以上、「どう考えても」自分の考えしか出てきません。自分で考えれば、自分の考えだけが出てくるのは、当たり前の話です。そして、立場も、体験も、脳も、考えている前提が違う以上、自分の考えが正しくて、相手の考えは間違っているとは言い切れません。

感情をコントロールする

「ムダな感情を防ぐ」上で、一番重要なのは、最初から「反応しない」という前提に立つことです。ブッダは、普通の人なら腹を立てるようなことを言われても、「無反応」で返しました。というのも、「苦しみのない心」を人生の目的とする以上、「反応して心を乱されることは無意味である」と、はっきり知っていたからです。

とは言っても、「どうしても反応してしまう」という人は多いでしょう。そこでお勧めできるのは、「心の半分を前に、もう半分を後ろに使う」という方法です。前を見る心は、そのまま相手を見ることに使います。反応はしません。「ただ理解する」という立場に立ちます。相手をただ見て、その言葉が理解できるかどうかだけが問題です。相手の言うことがわかるなら、「わかります」。もしわからなければ、よく聞くか、「今はわからない」と理解します。

禅の世界に「不動心」と呼ばれる心がありますが、これは自分の心を見る、見張る努力によって、はじめて可能になるものです。そもそも心は、死ぬか、”涅槃”に達するかまで動き続けます。心が動くのは当たり前。その動き続ける心を見張って、よく気づいて、それ以上の反応を止める。それが「不動心」の中身です。

困った相手とどう関わるか

感情で「反応しない」心掛けの次は、「相手とどう関わるか」です。「関わり方」とは、仏教的に言えば、「相手にどんな心を向けるか」と言うことです。「相手に向ける心を確立する」ことで、人間関係で苦しまない生き方が可能になります。

相手との関わり方の原理原則は下記の通りです。

①相手のことを「判断」しない
②過去は「忘れる」
③相手を「新しい人」と考える
④「理解し合う」ことを目的とする
⑤「関わりのゴール」を見る

①相手のことを「判断」しない
マイナスの感情が湧いた時、相手のことをやたらと判断したがります。しかし、心の内側を見つめて、なるべくクリアな心を保つという”仏教的な”生き方にてらせば、「しなくていい判断は、しないほうがいい」のです。

②過去は「忘れる」
人は、過去の出来事をいつまでも覚えていて、相手にも、その記憶を通して向き合ってしまいがちです。「過去を引きずる」と言うのは、仏教的には「記憶に反応している」状態です。もしイヤな記憶が蘇ったら、その記憶への「自分の反応」を見てください。相手と別れてもなお腹が立って止まらない時には、「これはただの記憶」「反応している自分がいる」と冷静に理解して、感情を鎮めるように心がけましょう。

③相手を「新しい人」と考える
仏教では、人も心も”無常”(うつろいゆくもの)ととらえます。
自分自身さえ、心はコロコロと変わり続けています。相手だって同じです。人は、コロコロと変わり続ける心で、いつも新しく向き合っているのです。こうした理解に立つと、相手は常に「新しい人」になります。「過去にあんなことをした、こんなことを言われた相手」と言うのは、こちらの「執着」です。

④「理解し合う」ことを目的とする
人と関わる時に大事なのは、「反応しないこと」だと学びました。しかしこれは、相手に無関心でいるとか、「我慢する」ことではありません。
「我慢する」と言うのは、「自分の怒りを抑え込んでいる」状態です。すでに怒りは湧いてしまっているので、我慢し続けると、ストレスが溜まって、どんどん苦しくなります。鬱にだってなりかねません。

⑤「関わりのゴール」を見る
自分自身の感情、思い、考えを、相手に理解してもらうことほど大切なことはありません。「私はこう感じている」「こう考えている」と言うことを、伝えること、相手に理解してもらうことを目的に据えるのです。
もし、相手が理解しようとしない、聞こうとしないなら、それはもはや、関わる意味のない相手なのかもしれません。どのような関係であれ、一方的な苦痛に耐えなければいけない関係は、存在しないはずだからです。

人は時々、苦しめ合う関係を、ずっと繰り返すことがあります。関わることの目的を確かめようともせずに、ただ自分の期待、思惑、都合、要求、過去へのこだわりに執着して、「正しいのは自分で、間違っているのは相手」と、いつまでも思い続けるのです。

”快”を大切にする

人間の心の状態は「二者択一」です。私たちの人生は、「快か不快か」の二つの間を揺れ動きながら、進んでいくのです。
生き物が”快”を感じるのは、欲求が満たされた時です。だから、欲求に素直に、否定することなく、満たしてあげることが、幸せへの近道ということになります。
「自分が快を感じる限り、欲求も大切にしていい」と考えるなら、承認欲も「活かし方次第」ということになるでしょう。「仕事で評価されたい」「人に感謝されたい」「褒められたい」という願いがやる気を刺激してくれるなら、その欲求を否定する理由は、少なくともその人にはないはずです。
ただし、欲求の満足が幸せにつながるのは、本人が”快”を感じられる場合だけです。逆に、もし欲が膨らみすぎて、「焦り」とか「不安」とか、不満が出てくるようなら、その欲求は一度手放さなければなりません。

「比較する」のは非合理的

人はなぜ比較したがるのでしょうか。もし、自分を自分で肯定できて、他人に認められたいという気持ちが全くない心境であれば、「比較する」という発想に心が向くことはないでしょう。まだ自分を肯定しきれていないから、自分に納得できていないから、自分の価値を確認するために「比較」しているのではないでしょうか。自分を「よし」と判断したいのです。

「承認欲」を満たしたいなら、そのための「正しい努力」をしましょう。あなたが出家するつもりでもない限り、承認欲は大切にしていいと思います。それが活動のエネルギーになってくれるなら、大いに頑張るべきです。
ただし、それは「モチベーション」として利用するだけで、「目的」そのものにしてはいけません。というのも、他人が認めてくれるかどうかは、他人が決めることであって、自分がコントロールできるものではないからです。

仕事でも、自分の生活でも、何か新しいことを始めたら、「改善する」という発想を持つことをお勧めします。「改善」とは、仏教的に言えば「快を感じられる工夫をする」ことです。”快”を感じれば、心はその対象に執着します。(それが「やる気」です)その心の性質を活かすなら、”快”を感じられるように環境を改善していけばいいのです。

自分のモノゴトに集中する

「自分のモノゴト」とは、自分にとって必要な、役に立つ、カラダ一つでできる「作業」のことです。そこに「他人の目」や「周りがやっていること」は関係ありません。

私たちは、あまりに「外の世界を気にしすぎ」です。いつも外の世界に心奪われて、そわそわと心落ち着かない状態になっています。実は、心というのは、何かに触れれば必ず反応するものです。あなたが期待するほど、心は強くありません。心は本来そういうものだと心得ておきましょう。反応しないためには、最初から「外を見ない」「人を見ない」ことが最善です。だからいっそのこと、目を閉じてみるのです。その状態で、心の内側だけを見つめてください。それが、自分が取り組まなければならないモノゴト、本当の作業に向かう出発点です。

いったん作業を開始したら、もう他人の目を気にしたり、外の世界を妄想したりしてはいけません。取り組むときは「無心」でやる。いっときに一つのモノゴトを、心を尽くしてやるというのが原則です。

外の社会や人間が気になってしょうがないなら、目を閉じてください。
勝ち負けや優越・劣等という判断が苦しいなら、目を開いてください。

目を閉じるのは、反応しないため。目を開くのは、妄想から目を醒ますため。シンプルですが、これが競争という名の妄想から抜け出すための第一歩です。

いつでも”正しい方向”を忘れない

ブッダは、決して暗い未来を妄想しません。かといって、根拠もなく明るい未来を想像することもありません。むしろ、今できることを大切にして、「良き地平にたどり着けますように」と、明るい希望を持って願うのです。その心境はいわば、「これからの人生を信頼する」というものです。

人の心は、外の現実に支配されない、”幸せの聖域”です。

あとは、その心にどんな”思い”を置くかだけです。
「最高の納得」に辿り着くために、生きていきましょう。

本書、「反応しない練習」は、
Kindle、Audibleで無料で読む(聴く)ことができます。
隙間時間、移動時間などを有効活用して、日々自分を高めていきましょう。

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