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戦争という経験

僕は1961年生まれ。前の対戦が終わったのは1945年。つまり敗戦から15年ほど後の生まれということになる。ちなみに「阪神淡路大震災」は、今から30年ほど前のことだ。

子どもの頃。横浜駅の東京寄り、東口と西口とをつなぐ通路には、傷痍軍人さんがいた。大戦で身体の一部を失った人が、楽器を弾きながら、路ゆくひとに喜捨を募る。

白い服を着て軍帽をかぶっていた、当時は暗かった地下通路に、申し訳ないけれど、その姿は亡霊のようだった。

僕は、正直言って、怖かった。右腕があるべき場所に金属製の補装具がある。その不気味な光を覚えている。
見かければ、オヤジはお金を包んでいた。でも、自分では渡さなかった。僕にその役割を押し付けた、それがまた嫌だった。

(今はオヤジの気持ちがわかるけど)

まだ福祉の手は、この国策の犠牲者に、全くと言っていいほど手を差し伸べてはいなかった。

わが家の男たちにも従軍経験があった。

叔父貴は北の海で戦死した。オヤジは、海軍の航空部、厚木にいた。機銃掃射を受けて頭部負傷。その結果、病院にいた時間が長くて命は長らえた。
オフクロ方のじいちゃんはシベリア抑留からの生還者。復員して故郷に帰ってみたら、自分の居場所はなくて、旦那さんに逃げられたうちのばあちゃんの後添えになった人だった。
親戚には、硫黄島で負傷、米軍に助けられて、帰国後、一生を戦友たちの遺骨収集に捧げて亡くなった人もいる。オフクロは、馬に乗って威風堂々とした彼を記憶しているが、僕は、どこまでも深い影を引きずりながら背中を丸めて歩く彼しか知らない。

僕は戦後の生まれだが、家族の経験としての「戦争」を記憶している。

オヤジはどんなに忙しくても、叔父貴の月命日を欠かさなかったし、二人の叔母からは、叔父貴の輪郭を想像するに充分すぎる、さまざまなエピソードを聞かされた。美大に進学しようとして、オヤジに大反対を受けたときも、手を差し伸べてくれたのは戦死した叔父貴だった。絵を描くのが好きだった叔父貴の「生まれかわりだと思って」と、叔母たちやばあちゃんが、オヤジを説得してくれたからだ。

叔父貴はよく不忍あたりにスケッチに出かけていたそうだ。いっとき戦時体制下、田んぼになっていたはずの不忍の池を、叔父貴は知っていたのか、いなかったのか。

聞いてみたかったけど、戦争が終わる半年前に叔父貴は戦死した。

ばあちゃんは言問橋に差し掛かると、必ず、橋の袂まで近づいていってから一礼した。親しかった一家が、ここで全滅したのだそうだ。

僕は小学生だったが、そのときのばあちゃんの表情を憶えている。

同じご町内には、女学校の同級生一家を下町大空襲で失ったという、おばあちゃんもいらした。
彼女の同級生は床屋さんのお嬢さんで、彼女には、その床屋さんの一番弟子の婚約者がいた。空襲当時は、婚約者の方は戦地にいらして、運良く、戦後、復員がかなった。でも、戻ってみると、どこが、その床屋さんかもわからない状況になっていてる。おばあちゃんを探し当てた彼が、おばあちゃんから事情を聞いて愕然としていらしたという。

その別れ際の後ろ姿が忘れられないと、おばあちゃんが。

敗戦から15年ほど後の生まれとはいうものの、同級生に僕みたいな経験を持つ人に会ったことはない(オヤジの結婚が遅かったからね)。だから、戦争の記憶はずいぶんと希釈されていた。

僕は「20世紀少年」の典型例な世代だ。

データの継承はできても、体温を持った経験としての継承は難しい。

戦争遺構なら少し説得力があるかもしれないけれど、言語や数値はドライに過ぎる。

「少年老い易く学成り難し」ではないけれど、時は無情なスピードで「戦争」を過去のものにしていく。継承は難しい。

学校は、おざなりにしか「戦争」を教えない。
でも、外国ではなく、この国が無残で酷い戦場になっていた「経験の記憶」は忘れていいってもんじゃない。

忘れればホロコーストを経験させられた人々が、今度はホロコーストの加害者になる。

人間はまだ人間になりきれていない。実態は、まだ半分は「人類」というケダモノだ。そういうことだって忘れちゃいけない。

※写真は鎌倉橋(東京都千代田区/日本橋川)に残る機銃掃射の痕跡