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激変なんだから、手探り上等

「朝のラッシュ」「帰宅ラッシュ」は過去のものになっていくんだろう。1961年生まれの僕には、まさに想定外のできごとだ。

NTTさんは、コロナ禍にいち早く時差出勤やテレワークの実施を推奨したけれど。社員数20万人かともいわれるNTTさんなんだから、急にテレワークな体制が整えられていたわけもなく、かなり以前から、「体制」はデザインされ、おそらくはシミュレーションも行われていた。

つまり、コロナ禍、あってもなくても「こうなる」だったんでしょう。

通勤がなくなれば、いくつかの鉄道路線が交錯するターミナル駅終焉の商業集積地は急速にポテンシャルを落としていく。そのかわりに、現在は喫茶店不毛の地みたいな郊外の住宅地に、平日の昼間を過ごせるようなcafeなどが増えていくのかもしれない。ただし、おしなべて「郊外」全域がそうなるわけではなく、その一方で、外国からの労働者の方が増えて、やっぱり昼間は空っぽ、マスな規模のスーパーに支えられるという地域も目立つようになるのだろう。また「全国に1千万人はいるかも」ともいわれる団塊の世代を中心に、しばらくは特別養護老人ホームを林立させる里山も続出させるのも「郊外」だ。

(都心が空洞化すれば、高齢者の街は「都心」にも現れそうだけど)

「終身雇用制」で「一億総中流」の時代も終わる。

一億総フリーランスな感じだし、年金じゃぁ食えないから(医療保険の自己負担額も増額していくんだと思います)、その年齢になっても続けられる仕事を持つ人とそうでない人の二極化も進むだろう。

(マニュアル・レーバーは、さらに国際的な競争に巻き込まれながら、買い叩かれる一方だろう。AI化も進んで警備員さんやお掃除のスタッフといった仕事は消滅しているんだと思う)

ずいぶん、様変わりする。

観光案内ではなくタクシーのような移送手段としての「人力車」が、今は皆無になったのと同じ。「ターミナル駅」があるから「ショッピング・ビル」があったわけだし、多くの人の生活がクルマを運転するほどの移動を必要としなくなれば、ロードサイド・レストランも、郊外型のショッピング・モールも必要がなくなる。新橋でサラリーマン・ランチの名店となっていたお店も「通勤してくる人」が激減すれば同様。

(実際、サンフランシスコは「通勤者がいなくなって都心空洞化」の現在進行形の代表例だ)

環境の変化に適応できなければ淘汰されるのが、この星の定め。ただね。「淘汰」とはいうものの「人間」の場合、あっさりと殺してももらえない。いきられる可能性があれば「生命」としては維持されてしまう(それがまた産業ですから)。

なるようになって「それから考えればいいや」というライフ・コンセプトが通用しそうに思えたのも、この国が高度成長期〜バブルという、酷くあぶく銭な時代にあったから。しかも、その時代は「集団」の一員になってくれる人材が常に求められていた時代。半世紀以上もそうだったから、現在の若者の・おじいちゃん、おばあちゃん、親御さんからしてそんな感じという方も少なくないのかもしれない。
でも、AIやコンピュータの発達によって、たいていのことが個人技の集積でなんとかなりそうだし、工場生産はロボットがやっちゃうかもしれないし…つまり集団生産時代の終わり、まさに就労環境激変と。

で。通勤もなくなる。人が働ける場所も激減する。

この国で、組織的な集団に拠る農業生産が確立されたのは中世から江戸時代の初期だといわれている。その「組織的な集団」が工業生産時代にも受け継がれて、何百年。幸か不幸か、僕たちは、そうした時代の終わりに遭遇してしまったようだ。

故に「これまで」を振り返って「なるようになるだろう」とタカをくくっているのは危険。「手探り」上等。「トライ&エラー」上等。準備を急ごう。リスクがない「雛形」「見本」なんて、この不確実性の時代に描けるわけがないから。

で。ご承知のようにあまり時間はない。
逡巡が命とりになる。