僕らの「お国」
記録に拠ると、
昭和20年(1945年)8月9日の御前会議で「国体の護持」を条件に受諾を決定し、8月10日に連合国に打電した。ところが、合衆国の回答の解釈を巡って、政府内では「国体の護持」が確約されているかどうかが判らんから、その点、再照会しろということになる…そこで、決めかねている間に改めて8月14日に天皇の命令で御前会議が開かれ、そこで宣言受託が決定され、同日、スイス公使を通じて、連合国側に受託が伝えられた。
とある。
この間、国内の空襲だけで、
8月9日 花巻空襲 死者42人。負傷者約150人以上。焼失家屋673戸。倒壊家屋61戸。
8月10日 熊本空襲 死者45人。負傷者43人。罹災人員6308人。全焼1491戸。半焼58戸。
8月11日 久留米空襲 死者212人。焼失家屋4506戸。
8月13日 長野空襲 長野市、上田市に艦載機による空襲。死者47名
8月14日 大阪空襲 死者500人とも600人とも。
8月14日 岩国大空襲 死者356人。
8月14日 山口県光市 光海軍工廠空襲 死者738人。
8月14日 秋田市空襲 死者92人。負傷者200人以上。
8月14-15日 小田原空襲 死者30~50人。
8月14-15日 熊谷空襲 死者266人。 市街地の74%が焼失。
8月14-15日 土崎大空襲 死傷者300~400人。
これだけの人が亡くなり、負傷された。
もちろん、たくさんの住戸、資産も失われている。
なんとかならなかったのかという思いは、ぬぐい去れない。だって、このときの御前会議や閣議など決定機関の会議に国民は不在だから。
大きな戦争を止めるわけだし、当時の日本を仕切っていた軍人たちは、一転、戦争犯罪人にされてしまうのかもしれないという瀬戸際ではある。でも、そういうことに市井の人々を巻き込んでいっていいんだろうかと思う。
市井に生きる身としては、いつまでたっても腑には落ちない。
しかも、降伏調印が行われた昭和20年(1945年)の9月2日までは国際的には戦争状態だった。8月15日から、この間の外地にいた邦人保護については、ほぼ手付かず。現地の軍、政府関係者もたいていは、率先して逃げた。
最後の空襲だとされている土崎空襲(土崎は秋田市の主要港がある地区)は8月14日午後10時30分頃に始まり、攻撃が終了したのは、翌8月15日の午前3時30分頃だった。つまり、土崎の人々は、夜、火の中を逃げ惑い、まだ全ての消化が済んだか済まないかというところで、15日正午の玉音放送を聞いたということになる。
当時、この空襲で被災された方が、昭和47年(1972年)に自費出版された歌集の中に、このような歌を載せていらっしゃる。
「直撃弾に 一家五人は 跡もなく 大きな穴のみ 残る朝明け」
昭和47年(1972年)といえば、すでに戦後四半世紀以上。東京オリンピックも大阪万博もすでに終わっていた。そんな高度成長期に、この方の記憶は鮮明だった。
いったい何人の人で会議をしていたんだか正確なところはわからない。だが、その人たちが会議をまとめられず、休会している間にも、市井ではたくさんの人たちが亡くなり、たくさんの人たちが一生消えない傷を、身体に、心に、刻むことになりました。それはまぎれも無い事実だ。
大きな船には急ブレーキをかけることはできない。ブレーキはゆっくりとしか効かない。それは道理だ。
だけど、だからこそ、決定権を持つ人の一瞬の逡巡が、多くの人の命を奪う。原理はバタフライ・エフェクトと同じだ。
今や、この国は前の敗戦直前と似たような状況にある。だから、声を上げるだけでなく、私や家族のための「避難」を企画し、実際の準備を進めておく、つまりセルフサービスを準備しておく必要がある。
(黙ったまま、準備もせず、「これまでどおり」は愚の骨頂だ)
お役所を含めた「公」がダメだからこうなるんで、故に彼らがシールドになってくれるとは思えない。所詮、僕らのことは他人事だ。「あのときは仕方がなかったんだ」で、僕らの命のことが片付けられる。
僕らの「お国」はこんなもんなんだ。
マスメディアは「大本営」とばかりに、政府のコントロール下にあるようでもある。それでも、この国の今が、あのときの敗戦直前の状況に極めて近いことをうかがわせる。
時間はない。能登のみなさんが、これまでの災害被災者のみなさんが発信してくださっていることを、わがこととして教訓にし、動き出そう。
時間はない。