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ある時代の終わり

1961年生まれの僕は、従順な「マニュアルどおり」「組織の一員」としてして「みんな」で働ける労働者、マスメディアから発信される選択肢を購入する消費者になるようにと教育(訓練/調教)された工業生産時代の子どもだ。敗戦で戦前の世間が自信を失い、行政が施す戦後教育一本槍になった団塊の世代から、ガンダム世代までがこんな感じ。

(Z世代でようやく変化の兆しが)

この世代は学校教育に疑いがなく、成績が良かった人ほど、性能のよい複写機ではあっても、創造力に欠如している。

でもね。このやり方で食ってきた人こそ近くAIにしてやられる。

そう思うでしょ。

だって、電気だけ食わしておけば、休憩も休日も休暇も必要なく24時間、365日、働いてしまう。彼らにはヒューマンエラーもない。

寿司は握れるし、人の顔は間違えないし、つくれる表情やタイミングも緻密になってきて、介護の現場で、お年寄りの心を解きほぐし、涙を流させてしまう。

たぶん、あと数年で、キャッシュ・オン・デリバリーのcafeやハンバーガー屋さんなどはロボットがいるだけになるか、アバターがいるか。タッチパネルになるのか。いずれにしても無人になっているのだと思う。現状でも、毎日通っても、注文が終わると「ドコモのDカードはお持ちですか?」って尋ねられる。これなら機械のほうがいい。
農業も建設現場もGPSの精度が上がって、すでにかなりの分野で無人化が可能。顔認証があれば守衛さんもいらないし、一般的な「清掃」もロボットとAIのもの。今、還暦過ぎの僕は、下手をすればあと20年以上も働いていなければ食えないけれど、その間「マニュアル・レーバー」が保つとは考えられない。

「少子高齢化による人手不足」「経済成長のために」、またパンデミックになれば「感染リスクの軽減」など、無人化への免罪符はいくらでもある。

一方、組織や集団で働くことがスタンダードすぎて、僕らはフリーランスな働き方を想像することができない。

(工業生産時代は画一化の時代でもあったから、その時代を長く生きてくると、物事たいていは「百花乱舞だ」ということを忘れてしまって、一種類か、せいぜい数種類の類型に全てが当てはまってしまうと思ってしまう。自営も、給与で就業する人も、ライフスタイルに大差はないんだろうと信じ込んでしまうというわけだ。自分の経験以外を注視しないから)

地域の自治会などに退職後のお父さんが参加して「私は〇〇会社の部長だった」と自己紹介したきり、良きのはからえ式で全く動かないという話しを、しばしば耳にする。もちろん地域の自治会に会社が与えてくれた「自分の部下」なんていないのに…

歳の功って言っても、ほぼ役に立たないのが現状なんだ。

工業生産時代の子どもは、よほどの変わり者でない限り、与えられた組織の中での位置付けを争うことはできても、自分で起業するということは「できない」「やろうとしない」がスタンダード。故に独立起業といっても、それはフランチャイジーの一員としてのものか、ショッピングビルに押し付けられた規約の中で行う「起業」が大半で、創造的な起業は「稀な例」に止まるでしょう。

自分でつくったと思って、実は「与えられた」だし、そうは自覚していないのが工業生産時代の子ども。プラモデルの飛行機を作って本物の飛行機を作った感じになっちゃってる感じ。だから、キットを与えられないと何もできない。きっとから自分で作ることはできない、と。

行政にしろ、会社にしろ、冷たいもの。自分で創造的に仕事を切り拓いていくヤツとは喜んで組みたがるだろうが、年功序列にじっとしている人は歓迎されないだろう。

行政は貧乏な上に借金を重ねて、しかも貧乏人のための公共政策なはずなのに、企業や金持ちにこそ、そのお金を撒いている。

この長寿社会に中高年な工業生産時代の子どもたちは、複写機で、集団生産の自分の分担のところにしか知識も経験もない。しかも、その歪さに自覚がなくて、我流に美味しい蕎麦が打てれば、それで「退職後に蕎麦屋」でなんとかなると思ってしまう。その「蕎麦屋」も、心底、蕎麦が好きってわけじゃなくて、実はマス的な流行に乗ったもので、流行が終われば消えて無くなるのが常。珈琲焙煎なんかもそう。

しかもプログラミングには弱い。

世の中、荒れるでしょう。
工業生産時代の子に、誰もマニュアルをくれないし指示もしてくれないんだから仕方がない。政府も、国民を家畜化してきたくせに、牧場が苦しくなれば、あとは勝手に食っていってくれだし…

不時着に備えよ…とはいっても、こういうことこそ、平時から意識して準備しておかなければなんだよね。

やっぱり、難しいか。

ヤケになる人も出てくるだろうから、私立のテロリズムも横行すると思うよ。もちろんいいわけはないんだけど、抑止するのも難しだろう。