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演歌を「鑑賞する」とは言わない。

冒頭の写真は、ヨコハマは伊勢佐木町4丁目にある青江三奈さんの往年のヒット曲「伊勢佐木町ブルース」の歌碑。スイッチを押すと1分間「伊勢佐木町ブルース」が流れるという、ご当地ソングの、そのご当地に、ときどきあるよねというスタイルの歌碑だ。きっと、これを商材に営業をかけている業者さんがいるんだろう。

でも人気でね。徒歩でも1分ほどの距離に、さる巨匠のパブリック・アート作品があるんだけど、そっちはさっぱり孤立的で、可哀想なくらい。街場の本音がどちらを選んだのか、そういうことが、明々白々、物語られている感じがする。

さて

「伊勢佐木町ブルース」のような昭和歌謡や演歌を、僕らは「鑑賞する」だろうか。鑑賞してもいいけれど、それだと昭和歌謡や演歌を冷たく突き放した感じ。「映画鑑賞」っていういい方もあるけれど、(昔の)お見合いの釣書(自己紹介文)に「教養」の部分を盛って書くときに使い勝手がいい言葉として利用されたのでは、と思う。だから、お見合いの現場で「どんな映画を?」と問われて「ミッション:インポッシブル」シリーズとは答えにくい気がする。少なくとも違和感がある。

でも、これがタルコフスキーの「鏡」だったらどうだろう。かつての「岩波ホール」でかかるような作品だったら。

この辺にヒントがある。

学校で「観ろ」「聴け」と言われるもの。これが芸術作品だと教えられるもの。つまり下賜されるものは「鑑賞する」。街場で育ってきた文化に位置する音楽や絵画、映画などについては「娯楽」として楽しむんだ。

だから、演歌は鑑賞しない。

街場の音楽はダンスミュージックをルーツにする。産業革命以後、あちこちの村から都市に集まった人たちの息抜きとして、酒席で演奏された。「呑めや唄」である。だから、街場の音楽にはタテのリズムがある。「groove」な音楽である。
一方、クラシックな音楽は貴族やブルジョアが主催するパーティのBGMとして発達した。パーティとはいえ、政治的な根回しや、家と家を結ぶ婚姻の相談の場でもあったから、ノリは御法度。静かなBGMに徹することが大事。「びっくりシンフォニー」みたいなことをやっちゃうと、ホントは怒られてしまう世界だ。
その後、産業革命があって勃興した市民は、上位文化としての貴族文化にステイタス・シンボルを求め、彼らの生活文化を自らの生活に取り入れようとした。だから「クラシック音楽」の名称がある。クラシックのクラス(=class)は「階級」を表すラテン語に由来し、市民勃興後には「一流の」という意味が加わるようになる。

なるほどね。

わが国の学校教育で下賜されたのは、このあたりのことだ。何しろ「欧化政策」は西洋の一流に学ぼうとした。戦争に負けた後は、それがアメリカに変わっただけだ。

でも本家本元の欧州では1960年代を中心に両者が混じり合うようになっていた。

1963年11月。ロンドンのプリンス・オヴ・ウェールズ劇場で行われたロイヤル・ヴァラエティ・ショーに、ビートルズが出演。このライブにはエリザベス王太后、マーガレット王女、スノードン卿が出席していたんだけど、このとき、ジョンが観客に向かって「最後の曲になりました、皆さんのご協力をお願いします。安い席の人は拍手をしてください。それ以外の人は宝石をジャラジャラ鳴らして下さい」と言ったのだけれど、このあたりでクラシックと街場の音楽の障壁は、ガラガラと崩れていったといわれる。

でも、わが国ではそうはいかなかった。壁はあるんだけど、この国は、その「壁」を無色透明なものにする。だから越えるべきバリア(障壁)が明確にならず始末に悪い状況は今も続いている。

でも、ちゃんと壁はある。「お作法」である。
裏千家では「たたみ一畳を、およそ五歩で歩く」というあれ。理由なんて教えている人にもわからない。とにかく作法なのである。学術論文にも、なぜか「体言止め」はダメだとされていて、これも作法だからと説明される。
クラシック音楽が、ほぼほぼ楽譜に忠実なのも、お作法だ。だから葉加瀬太郎さんは芸大を出ていても、クラシックな関係者にはポピュラー音楽の人と見立てられる。

(ほぼほぼ楽譜に忠実なクラシック音楽の各演奏家による個性は、それゆえに微細なものだ。わかりやすくはない。でもね。それだけに深いものだったりはするんだ)

欧化政策後に生み出された学校教育は、欧州の芸術を一流のそれとして、鑑賞させる。だから印象派の絵画が、浮世絵の影響下に発達したことは「不都合な真実」ということになる。マイセン磁器が柿右衛門のコピーから始まったことも、同様だろう。

しかも、素養として身につけさせようとする。楽しみなさいとは言わない。
音楽なんて「音学」とはいわずに「音楽」っていうのに。

今となっては、僕ら受け手がめちゃくちゃに好きな音楽を、絵画を、好きなように楽しむことが革命かな。
そうすれば、収まるところに収まっていくだろう。
もともと、両者はずいぶん前からまじりあっていた。

ちょっと前に、街場の音楽の中でも街場な音楽であるはずのジャズに、これがジャズだ、あれはジャズじゃないとか論争が起こったことがある。

でもね。あるジャズのプロモーターが「いいものはジャズってよんじゃえばいいんじゃないの」と。

ああこれでいいと思った。

だから、知らぬ間に、クラシックもポピュラーもなく、自分にとって「いいものはいい」それでいいんじゃないかな。どんな音楽だって、絵画だって鑑賞させていただく必要なんかない。ただ楽しめるものを楽しめいいし、ホッとさせてくれるものに和ませてもらったり、癒されれたり。

ようはね。邪魔なのは「鑑賞する/させられる」なんだ。

ありがたがってないで
もっと「受け手」としての自分に自信を持てっていうことだね。