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かつての喫茶店時間

再び 永井宏さんの著作「カフェ・ジェネレーションTokyo」(河出書房新社/1999年)からに引用。

線路ぎわはそんな常連客にとっては都合のいい場所で、いつも顔見知りが誰かしらいるので時間も潰せたし、みんなでああだこうだと様々な夢を語ることもできた。みんな湘南育ちだから、そのイメージや結束力は固く、湘南から何かを発信していきたいという願望がいつも気持ちの中にあった。それはたいてい海に関連していて、砂浜のゴミをみんなで拾い集めるようなイベントを開催しようとか、ドラム缶にメッセージを書いたゴミ箱をスポンサーを集めて設置しようとかいうものだった。フリーペーパーを発行しようという動きもあった。とはいってもみんなまったくの素人だから、ああしようと考えているうちにだらだらと一日が終わってしまうことが多かった。

「あゝ、わかる」と思った。

これは湘南に限らず、あちらこちらの喫茶店コミュニティにあった、しょうもない日常のワン・シーンだ。

昼間の喫茶店の常連になれるということは、9時−5時の「会社勤め」という人ではない。多くは、当時「カタカナもの」と呼ばれた職種のフリーランスか、学生だったはずだ。だから「みんなまったくの素人だから」は、ちょっと語弊があって、どちらかといえば、当時の喫茶店ならではの「オチがつかない、いいかげんな企画会議」に値打ち(目的)があったんだと思う。

だって、オチがついたら「仕事」になっちゃうから。

下町の中小企業のオヤジが集まる喫茶店(当時)でも、同じように「絵図を描くためだけの企画会議」はあって、それをオヤジたちは楽しんでいた。
ときどき「瓢箪から駒」みたいなことはあって「中小企業連携で人工衛星開発」みたいなことが起こらなくはないけれど、たいていは「夢」で終わる。でも、だからこそ、みんなのレクリエーションになるというもの。だって喫茶店には、みんな、仕事の合間に「息抜き」に来ているのだから。

「無責任に言いっぱなし」 喫茶時間では、そんな感じが心地いい。

中学校や高校の同級生だって、たいていは「会社員」などの「組織」の一員になる。だから、フリーランスや、中小企業の経営者は、話が合う人も少なくて、実は孤独だ。

だから、その孤独の穴を埋め合わせることができる場所を探して、彼らは喫茶店に辿り着く。
みんなでああだこうだと様々な夢を語ること」は、今、安心のコミュニティに居ることを確認している作業でもあるわけだ。

さらに「カフェ・ジェネレーションTokyo」から

八〇年代の後半から九〇年代にかけて、かつてあったような文化や意識や精神をゆるやかに共有させてくれるような喫茶店が次々と消えていってしまった。それまで、そんなものを漠然と求めて喫茶店を利用していた多くの客が、その必要性を感じなくなってしまった。バブルの影響下、多量の情報とスピードで様々な空間が生れ続け、そこに何もかもが一緒に放り込まれてしまっていたので、寛ぐより先に、体験するほうが忙しく、それを批判する間もなかった。個人的な柔らかな時間を持ち、それをじっくりと味わうということが必要のない時代だった。

ようは「バブルの影響下」みんながみんな「金」を儲け、未体験を「買う」のに忙しくなっていたということだ。特にフリーランス、中小企業のオヤジたちは「組織の一員」ではないだけに、自由度は高かった。いくらでも突っ込めたのである。

僕の知人にも神田の小さな印刷屋だったのに、あの頃、次々と10棟のビルを建て、バブル崩壊後に見事に全てのビルを失って自己破産した人がいる。確か、バブル期には、四人の共同出資で、石垣島に別荘コテージを持ってもいた。

でも喫茶店で夢を語らうゆとりは失っていた。

そしてバブルが崩壊したら、資産も「喫茶店時間」も失っていたというわけだ。

かつての「常連」たち。今は、ドトールなどで「夢よもう一度」とカウンターのレジスタッフに声をかけてみたりして、空振りを繰り返しているのだろう。キャッシュ・オン・デリバリーのコーヒーショップは、自らのビジネス効率のために、かつての「喫茶店」にあったような、来客ひとり一人に対しての個別対応を無くしたビジネス・モデル。それが成功の源だ。だから来客同士の縁をとりもつこともない。だから、スタッフと常連が親しく語り合うことを可能にするカウンター席もなけれぼ、「どちらからいらっしゃったんですか」と声をかけられることもない。

何事も来客と店との関係、店を媒介にした来客同士の濃密な関係が「始まらない」ようにデザインしてあるのが、キャッシュ・オン・デリバリーのコーヒーショップだ。

絵に描いたような「後悔先に立たず」だ。
「街」も痛手を負った。

でも喫茶店は絶滅危惧種で、キャッシュ・オン・デリバリーのコーヒーショップは、すでに世の中に定着してしまった。

もう、もとには戻らないだろう。
でも「孤独」は都市に蔓延している。喫茶店全盛時代に比較しても、さらに深刻になり、広範に渡って。

孤独の居場所。

かつての「喫茶店時間」を復刻しても「現在」には馴染まないとは思うけれど、少なくとも参考にはなるんじゃないかな。

僕は、かつての「喫茶店時間」。不要になったわけではないと思うんだ。むしろニーズは、これから顕在化していくのかなって。