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【和訳】独ソ戦:1944年4月、独第1装甲軍の救出(米陸軍資料“GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS”第2部第2章)

GERMAN DEFENSE TACTICS against RUSSIAN BREAKTROUGHS
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はじめに

このnote記事は、米陸軍の戦史資料『ロシア軍の突破に対するドイツ軍の防御戦術』(米陸軍軍事史センター、1951年)の第2部第2章を日本語に翻訳したものです。

この戦史資料は、序文によると、「ドイツ軍報告シリーズ」の一つとして編まれたもので、著者はドイツ国防軍(第二次世界大戦時のドイツ軍)の将官と参謀本部勤務将校とのことです。著者陣の名前は伏されていますが、筆頭著者に関しては、その経歴が記されています。その記述から、この資料を執筆した中心人物が、おそらくエアハルト・ラウス陸軍上級大将(最終階級)であると推測できます。ラウス将軍は1943年以降、ドイツ装甲部隊の軍団長、軍司令官の任に就いており、ドイツ軍の防御戦術を語るに相応しい人物の一人であると思われます。

この資料の部分訳を読むうえで、いくつか注意してもらいたい点があります。一つは、この文書はドイツ軍人の記憶に基づいて執筆されたものなので、不正確な記述が含まれているという点です。なお、前回、第2部第1章を翻訳した際は、その章で扱われている会戦に関する資料がいくつか手元にあったため、訳註を付けましたが、第2部第2章が扱っている「カメネツ=ポドリスキー包囲戦(フーべ包囲戦)」に関しては、資料をもっていないため、今回は訳注を付けませんでした。

また、二つ目の注意点として、この資料は、第二次世界大戦当時のドイツ軍人の視点で書かれているという点があります。このような偏りがあることを前提にご一読ください。

三つ目は訳文中の用語等に関するものです。この翻訳には、「連隊」「師団」といった陸軍の部隊単位に関する用語が出てきます。また、戦況図には部隊を示す記号が使われています。これらに関して、当初、訳註で解説することを考えましたが、注釈の文字数がかなり多くなる等の理由で、解説を付けることは諦めました。ウィキペディア日本語版にこれらの事項の解説記事が掲載されていますので、必要に応じて、参照してください。

最後に、地理的名称はロシア語の発音に近似するカタカナで表記しました。また、今回、訳出した箇所はウクライナが作戦地域となっているため、必要に応じて[  ]内に、ウクライナ語発音に近いカタカナ表記も加えています。訳者はロシア語とウクライナ語に精通していませんので、カタカナ表記として不適切なものがあるかもしれません。その点も、あらかじめご了承ください。なお、[  ]内の記述には、地名表記のほかに、訳者による補足的説明も含まれています。

日本語訳

第2部「積極的防御」第2章「側面攻撃」

防御側は多くの場合、敵による突進の側面を攻撃することに有益さを見出し、その目的を、突破しつつある敵戦力の根本を刈り取ることと、その戦力の撃破に置く。この戦術は効果的ではあるが、それは次の条件が成立する場合に限る。このような攻撃は、防御側の片方の側面からもう片方の側面に向かって、敵の突破によって生じた開口部を真っ直ぐに突き抜けて行われるのだが、その際に防御側の攻撃の進発地点となる肩部が確保されている場合、もしくは、防御側が攻撃側を叩き潰すことができるための鉄床として利用可能な自然障害物、例えば大規模な水域や沼沢地のようなものがある場合に限られる。また、効果的な側面攻撃のためには、適当な打撃力を有するバランスの取れた戦力が必要となるが、その強さは、突破に加わっている敵戦力全体の3分の1を超える必要は必ずしもない。戦力が強力であればあるほど、そして、高い移動力を持っていればいるほど、防御側の目標達成は迅速になされることが多い。他兵科の支援のない歩兵が、機甲戦力による突進に対して、側面攻撃を成功裡に遂行することはできない。このような場合、歩兵は必ず強力な突撃砲[*注:歩兵支援用自走砲の一種だが、対戦車兵器としても有効だった]部隊と戦車部隊の支援を、そして、それと同様に規模の大きな対戦車戦力の支援を受ける必要がある。

突進する敵軍の側面を攻撃する防御側は、自らの側面を敵にさらしてしまうというリスクを負う。それゆえに、このリスク要因は、反撃計画を立案する際に考慮に入れておかなければならない。この危険性だが、通常、予想よりも深刻なものにはならない。なぜなら、敵の突破行動の初期期間、攻撃側は多くの場合、その戦力をほぼ間違いないなく進撃軸線上に投入し、進撃時の側面にあまり注意を払わないからである。このような突進戦術は実際に有効ではあるが、それは、防御側が即座の効果的反撃を行う手段がない、もしくは、そうする好機がない場合にのみ限られる。たとえば、ソ連侵攻の1941年の期間、ドイツ軍はソ連軍に側面攻撃の機会を与えなかった。他方、1942年のソ連軍反攻の時期、ドイツ軍統帥部は、自由にできる強力な装甲戦力を有していた結果、敵軍が不用意に自身の側面をさらすことを推奨できない状況にした。苦い経験がソ連軍に側面は防護されねばならないということを教えることになり、その後、ソ連軍はついに側面の対戦車防護を十分にするようになった。そして、その側面は、多大な死傷者を出してでしか攻略できないようになった。これが理由で、1943年以降、ドイツ軍による側面攻撃は徐々にその鋭さを失い、かなり頻繁に撃退されるようになった。

側面攻撃は、敵側渡河地点を排除する目的で展開される際、とりわけ効果的である。最初に渡河した戦力を粉砕する、または、それを一掃することは、大きな困難なしに実行できる。なぜなら、この渡河第一陣戦力が適切な防護措置をとっていることはまれだからだ。これの反対事例が、1943年12月にテテレフ川[テテリウ川]沿いで起きた(第3章)。対岸から適切な火力支援を受けた、強力に防御された敵側橋頭堡を除去するのは、極めて困難であることを、いや、ほとんど不可能といってもいいことを、多くの場合、防御側は思い知るものだ。

さて、1944年4月上旬、ドイツ軍は側面攻撃を発動し、危機的な情勢を安定化させる点で大きな効果を発揮した。ガリツィア[ハルィチナー]地方東部とポドリア[ポジーリャ]地方における冬季の激戦の末、3個軍団を有するドイツ第4装甲軍は、北のコヴェル[コーヴェリ]からブロディ[ブロードィ]を経由して、南のベレジャニに至る戦線上に展開していた。(地図3)

地図3
※画像が不鮮明に表示される場合は、以下URLからPDF版にアクセス(無料公開)し、巻末の地図を参照すること
https://history.army.mil/html/books/104/104-14-1/cmhPub_104-14-1.pdf

ソ連軍によるブロディ包囲が差し迫っていた。この都市と第4装甲軍左翼の間は隙間が空いた状態で、軍右翼側は開け放たれていた。いわゆるテルノポリ[テルノーピリ]要塞は、そこから戦線南翼まで18マイル[約29km]離れており、包囲されてから10日経っていた。ドイツ第1装甲軍は、包囲されながら移動しており、ドニエストル川[ドニステール川]の北方で、第4装甲軍南翼の戦線開口部に向かって移動しているところだった。ドニエストル川の南北両側では、強力なソ連軍が包囲網を越えて、目下、西進中であった。

全体的な情勢は満足のいくものから程遠いものではあったが、第4装甲軍は少なくとも後退運動を止め、踏み止まっていた。同軍は幾多の決定的な会戦を経ても戦力が損なわれておらず、冬の間に敵軍に大きな損害を与えていた。明らかに戦闘によって疲弊していたにもかかわらず、ソ連軍はリヴォフ[リヴィウ]へ向かうルートを確保する目的で、ブロディを奪取しようという試みをやめなかった。ソ連軍は確かに何回かブロディ包囲に成功した。だが、ティーガー戦車大隊1個とパンター戦車大隊1個で臨時編成されたフリーべ装甲戦闘団が、そのたびに包囲網を突き崩した。この戦闘団は、後期型ロケット弾発射機を装備したロケット砲旅団によって増強されており、敵軍が最終的な全面攻撃を行おうと集結地点に展開している際に、その敵軍を撃破した。ソ連軍はブロディ包囲を諦めた。そして、まず見られないことだが戦術を変更し、新着戦力を用いて、第4装甲軍の戦線中央部に相対するかたちで一貫した戦線を形成した。第13歩兵軍団はこの動向に連動して動き、北翼の第42歩兵軍団とつながる戦線を形成した。この結果、ブロディの北方にあった間隙は埋められた。そして、フリーべ装甲戦闘団はこの時点で、ほかの任務に使えるようになった。

第4装甲軍の開け放たれたままになっている右翼は攻撃されていたが、軽い攻撃だった。ソ連軍は村落をいくつか占領した。だが、それらの村落は、当地に配置された予備戦力によって、すぐさま奪還された。この予備戦力は1個戦車大隊の支援を受けており、この戦車大隊は南側側面を自由に動いていた。第4装甲軍の戦線に問題はなく、その南側側面はむき出しであったとはいえ、安全が保たれていた。

包囲下で移動中の第1装甲軍を迂回したソ連軍は、依然として西進を続けた。ドニエストル川南岸方面のソ連軍戦車部隊先遣隊はスタニスラフ[イヴァノ=フランキウシク]に入った。また、ドニエストル川北岸方面のソ連軍先遣隊は、ガーリチ[ハールィチ]橋頭堡周辺の要塞化地区に近づいていた。即座に集結したドイツ軍歩兵部隊は、ハンガリー第1軍先遣部隊と協同して、市街戦の末、敵軍をスタニスラフから追い出すことに成功した。なお、ハンガリー第1軍はスタニスラフ〜ナドヴォルナヤ[ナドヴィルナ]地区に集結中だった。一方で北岸方面で敵軍を阻害するものは泥濘化した大地だけで、この方面の敵はゾロタ・リパ峡谷に到達した。ここの敵の前進軸はドロホビチ[ドロホヴィチ]油田を向いていた。

包囲下にある戦力の先頭部隊は今やチョルトコフ(チョルトキウ)地区に到達していた。この包囲されている第1装甲軍を側面攻撃によって救援する任務が、第4装甲軍に与えられた。そして、第4装甲軍は、この任務を遂行するための強力な増援戦力を受け取った。側面攻撃はベレジャニから南東に向かって行われることになっており、一方で、ドニエストル川への副次的な一撃が、ガーリチ地区にまで浸透していたソ連軍歩兵師団群を摘み取って撃破することになっていた。

軍後方地域で鉄道から降ろされた第100軽歩兵師団の第一陣が、本攻撃の準備として、ベレジャニ南方の地点を占領するよう命ぜられた。別の歩兵師団の部隊は、ロガティン[ロハティン]南方の地域を奪取することになった。これら2つの作戦の目的は、イタリアから移送されてきた第2SS装甲軍団の鉄道からの降車を、安全に進めることにあった。鉄道で運ばれたのちの数日間で、この軍団の進撃準備は整った。自軍側面への脅威に気づいたソ連軍は、投入できる限りの空軍力を用いて、この地域でたった2本の道路しか使えなかったドイツ軍の戦力集結を妨害した。だが、敵側の妨害は、泥濘化した大地がもたらす困難さと比べれば、取るに足らないものだった。

第100軽歩兵師団は決定的な一撃を加えるために、進撃路上の掃討を行う予定であり、そのすぐ後方に装甲軍団が続いた。大規模な機械化部隊の移動が可能な、どんな天候でも使える道路は、ポドガイツェ[ピドハイツィ]からブチャチを通るものだけだった。この歩兵部隊は、装甲部隊による一撃に必要な道を開くために、入念に防御されたポドガイツェを占領するという任務を有していた。歩兵部隊は、ベレジャニ南方の高台になっている森林地区から敵側防御スクリーン戦力を追い出すとすぐに、大きな雪の吹きだまりのなかに突入した。この吹きだまりは道路一面を覆っており、数フィート[*注:1フィート=30.48cm]の深さで、200〜500ヤード[約183〜457m]の長さがあった。道の両側は雪に覆われた荒地であったため、この障害物を迂回するのは不可能だった。歩哨を配置したうえで、戦闘部隊の将兵は、円匙や現地調達したシャベルしかなかったが、雪かきを始めた。数時間にわたる作業を黙々と進めたのち、車両が通ることができる通路が1本、開かれた。正午頃、砲兵と戦車の移動が可能になった。砲兵と戦車はこれから行われるポドガイツェに対する作戦にとって必要不可欠なものだった。

遅れが生じたにもかかわらず、歩兵部隊はその日のうちに、ポドガイツェの前面に位置するしっかりと組織的に防御された高地を制圧した。この歩兵師団に配属されたティーガー戦車大隊は、ポドガイツェに入る地点を守備していたT-34戦車と対戦車陣地を叩きのめした。しかし、その結果、ドイツ軍の前進路は完全に塞がれてしまった。唯一の主要進入路は行動不能になった16両のソ連軍戦車でいっぱいになった。歩兵部隊が家屋一軒一軒を巡る戦闘を行いながら、じわじわと前進するなか、大破した戦車は牽引されたり、道の脇に押し出されたり、爆破されたりした。夜遅くまでに、ティーガー戦車隊はポドガイツェ内へと突進し、その間、さらに36両の戦車を撃破した。歩兵部隊は一晩中、掃討戦を行い、翌朝にはストリパ川に向かって東方へと向きを変え、装甲軍団の左側面を守りつつ、同軍団が前進できるように道を開けた。

今や第10SS装甲師団が先陣を切っており、100両の戦車を前にして進んだ。ポドガイツェの南端で、同師団は巧妙に隠蔽された対戦車砲による抵抗に遭遇した。この対戦車砲はしっかりとした塹壕内に配置されていたため、正面攻撃はできなかった。また、道の両側に深い水路があり、谷間や湿地もあったことから、装甲師団は迂回することもできなかった。念入りに偵察したのち、これらの対戦車砲は、戦車と野砲の集中的な砲撃によって、最終的に一つひとつ破壊されていった。道路は切り開かれ、戦車隊は前進した。さらに遅れることを避けようとして、第10SS装甲師団の師団長は、路外軌道でブチャチに向かう決心をした。しかし、近道のために選んだルートは、湿地帯であることが分かった。このルートを通過できたのは、5両の先導戦車と師団長だけだった。師団長は第1装甲軍の前衛部隊との接触を確立することができた。だが、ポドガイツェ〜ブチャチ間の高速道路が依然として敵の手にある限り、師団長が成し遂げたことは実際のところ何の意味ももたなかった。高速道路を離れるという拙速な決断は作戦を遅らせ、師団の指揮官を自身の部隊から切り離すことになった。この師団の戦車は泥濘で動けなくなり、戦車隊員は軍団長の指揮下で歩兵して戦って、高速道路を掃討した。敵側の対戦車砲の砲撃は彼らの前進を妨げ、道路沿いの村々でソ連軍は激しい抵抗を示した。しかし、装甲軍団と、ガーリチ地区から接近してきた歩兵師団の双方からかかる圧力に屈し、ソ連側の努力は無駄に終わった。その日の夜、ブチャチ西方に位置する道路屈折部付近において、ドニエストル川沿いを東方に向かって退却してきたソ連軍の数個歩兵師団は阻止され、川のほうへと圧迫された。そして、新たに到着したドイツ軍歩兵の支援もあり、これらのソ連軍は壊滅した。攻撃部隊は再編成を行い、その後、東方へと前進方向を変えた。4月5日にブチャチに到着し、包囲下にある軍[=ドイツ第1装甲軍]の退却進路は切り開かれた。ソ連軍は手にしたものから賞金を引き出しつつあったが、その賞金は容易に得られるものではなかった。ソ連軍は退路を断つ目的で、猛烈に追撃して、増水したストリパ川の渡河を試みた。しかし、ソ連軍はドイツの救援部隊には敵わなかった。ソ連軍が渡河すると、必ずそのソ連軍はすぐさま対岸へと押し戻された。

4月中旬までに、第4装甲軍右翼はストリパ川の西岸に展開し、その南端はドニエストル川で固定された。その戦線には、ブチャチからみて対岸に位置するストリパ川橋頭堡も含まれている。ガリツィア地方東部の戦線安定化という側面攻撃の目標は達成され、それとあわせて、包囲されていた第1装甲軍の解放と、同軍をドイツ側防衛線に再度組み込むことも達成された。

ほかの事例として、ソ連軍機甲戦力が戦線上に20マイル[約32km]幅の穴を開け、そこに増援を注ぎ込んだというものがある。ドイツ軍司令部は側面攻撃によって、この裂け目を塞ぎたいと考えたが、このために使える戦力は1個装甲師団しかなかった。この任務を遂行するには、この師団の戦力は弱すぎ、敵軍がこの裂け目を広げようと強力な戦力を投入し、さらに進撃軸の南側側面を強力な戦車部隊と対戦車部隊で固めつつある状況とあっては、なおさらそうだった。それゆえ、作戦はいくつかのフェイズに分割された。第一段階として、粉砕されていた突破口南側肩部が増強された。その後、装甲部隊による予備的攻撃が実施され、突破口は10マイル[約16km]まで狭められた。歩兵部隊の増援を得た直後、この装甲師団は作戦の主段階、つまり突破口の閉塞を行う準備を整えた。敵側面に対する夜間奇襲攻撃を敢行し、機械化歩兵部隊は戦車と対戦車砲による防衛網を打ち破った。それにすぐさま続いたドイツ軍戦車隊は、突破口を閉じるのに成功した。新たに展開した防衛線に対して、激烈な敵の攻撃が加えられたが、その攻撃は撃退された。しかし、そのとき突破口北側肩部が、猛烈に増加する敵の圧力に直面し、屈してしまった。だが、タイミングよく増援戦力が到着したことで、最終的にここの危機は取り除かれた。この例は、たとえ比較的弱体な装甲戦力によって実施せざるを得ないとしても、上手く実施された側面攻撃が効果的であることを明白に示している。また、突破口の両肩部を保持しておくことの重要性も、実にはっきりと示されている。

側面攻撃は局地的反撃においてかなり頻繁に用いられ、大規模な防衛作戦の多くで、その一部に組み込まれている。圧倒的に優勢な機甲部隊によって、戦線上、かなり大きな幅でなされた突破は、たとえ強力な戦車戦力が防御側に利用可能である場合でも、側面攻撃で撃破することはできない。なぜなら、攻撃側は通常、進撃軸の側面を、戦車及び対戦車部隊による適切な戦線を展開することで防護するからだ。さらに、側面攻撃によって、このような障害が克服できた場合であっても、依然として攻撃側には、危険を除去する目的で、攻撃主正面から脅威にさらされている内線側面に、強力な戦車部隊を移す時間が十分にある。最も好ましい環境下においても、防御側機甲部隊にできることは、攻撃側に新たな側面防衛線の構築を強要することによって、攻撃側の主戦力を分散させること程度なのかもしれない。このようなことが、1943年にキエフ[キーウ]の西方で起こった。そのときドイツ軍は当初、敵側の攻撃計画の妨害に成功したものの、その後、自らの計画が阻害されていることに気づいた。結果として生じたのは、自軍戦線が延長してしまったことで、側面攻撃に投じられたドイツ軍予備戦力は、その延伸した戦線に縛りつけられることになった。さらに、自軍側面を開けたままにしたことで、ソ連軍がその地点で攻撃圧力を強めることを促進させてしまった。

多くの場合、機甲戦力による側面攻撃の脅威は、攻撃側に強い警戒心を喚起してしまうことになり、その結果、攻撃側は突破した自軍機甲戦力の消耗を避けようと、攻勢を停止してしまうことになる。もし、ほんの少し前に、攻撃側が側面攻撃によって、または、ほかのかたちの機甲攻撃によって、手痛い打撃を被っていた場合は特に、攻撃側は警戒するだろう。例えば、ドイツ軍のスターリングラード救援攻撃の際、ドイツ軍装甲部隊は進撃するソ連軍歩兵部隊の側面に向かって攻撃し、ソ連軍の歩兵はパニックになって逃げていった。このことは驚くべきことではなかった。なぜなら、その月の初めにソ連軍1個騎兵軍団がアクセイ川に近いポフレビンにおいて、強力なドイツ軍1個装甲師団の側面攻撃を受けて壊滅してしまっており、ソ連軍2個歩兵師団もこの川の北方で同じように反撃されて敗走していたからだ。(米陸軍軍事史センター刊行物『Russian Combat Methods in World War II』69〜70ページを参照)

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