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パンとバラ稽古場レポート① やさしい演劇のつくりかた~ハラスメント防止研修に参加して

以下は、11月のとある日、演劇ユニット・趣向の12月公演『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』の稽古場で開催されたハラスメント防止研修のレポートです。
不必要に強い表現・悲しみや恐怖を煽るおそれのある事例の紹介は避けるよう心がけましたが、お読みになる際はどうかご無理なさいませんよう、お願い申し上げます。 (浅見絵梨子)

はじめに

思い返せばこの数年で、以前よりはるかに劇場に足を運びづらくなったと感じる。
新型コロナウイルスの蔓延ともう一つ、大きな要因になっているのが、なくならないハラスメントの告発だ。
個々の事例についてほんの少し調べただけで、加害者にはそういった噂があった、接する際には注意するよう周りにアドバイスされていたというような記述に行き当たり、愕然とする。同時に、けれどそれが普通のことだと思っていた、という意味合いの表現もしばしば見かけ、かつてスタッフという立場で創作に参加していた自分の感覚が、誰かを追いつめるものではなかったろうかという問いに、自信をもってうなずくことが、今もできない。

そうして現在、令和4年。たまに気になる作品を見つけても、並ぶ名前がどんなに有名でも魅力的でも、まさかこの舞台が誰かの痛みをなかったことにして成立したということはないだろうか、と心の隅でちらりとうたがってしまうのが苦しい。何かと雑事でせわしい日々、わざわざ調べるのもしんどい。それで、足が遠のく。

そんなある日、劇作家のオノマリコさんに

「こんど公演があるのだけれど、稽古がはじまるまえにハラスメント防止研修をすることにした」

と聞いた。なるほどこれはとてもいいアイデアだ。
業界全体・業界に関わるひとたち全員で、創作環境と意識を変えていくには、残念ながらきっと、長い時間が必要だろう。千里の道も一歩から、何より、今この時、ともに作品を創造するひとびとがハラスメントという問題を共有する場が設けられることは、具体的にこの先、そのひとりひとりを守る手立てを増やすことにつながると思う。
さらに観客としても、気になる公演においてそのような取り組みがなされているということが事前にわかれば、観に行くか行かないかの判断に、ひとつ安心が加わる。
業界全体に問題意識が浸透している、という状況にはおそらくまだほど遠いこと、扱う際にきめ細やかな配慮が求められる問題だということなど、ハードルを挙げはじめればきりがない。それでもまず、やってみる。それは、素晴らしい判断だったと思う。
 

研修内容について

研修は、講師の方にご準備いただいたプリントを見ながらレクチャーを受ける、という形ですすんだ。2時間弱の講義の中で、10分程度の休憩が1回。最後に質疑応答の時間が設けられ、それはたしか15分……もう少し長くなったかもしれない。稽古開始の予定時刻が迫る中、時計に視線を向けつつもひかえめに手を挙げ、感じたことを述べる方がつづいたのには、ひそかに胸が熱くなった。
研修の骨子は、2つ。

ひとつめは、ハラスメントとは何か? を理解すること。
ふたつめは、どう対応したらよいか? を身につけること。

上記を踏まえたレクチャー内容は、おおきく分けて3つ。
まず、ハラスメントの法的な定義について。
次に、ハラスメントを防止するための基本的な対策について。
この、防止するための対策についての話題が徐々に「もし起きてしまったらどうするか」という対策の話に移り、その中でいくつか実際に演劇の創作現場で起きた事例について共有いただく、というような流れだったと思う。
骨子が明確で、話の流れもわかりやすかったのだけれども、実質1時間半程度というかぎられた時間内で理解するには、やや情報量が多かった印象だ。
ただ、兎にも角にも「創作現場で不当に尊厳を傷つけられるひとを生まない、万一生まれてしまった場合は全力で被害者を守り、かつ再発防止策を講じるべき」という一貫した姿勢とともに提供される、あくまで現場レベルでの対応を主眼に置いた学びの機会を得られたことは、参加者にとって大きな収穫となったのではないかと感じた。
 

素敵だったこと

研修開始時刻に、集まったのは6~7名だったろうか。けっして少なくはなく、さらにスタッフの方も参加されていることをも含めて高く評価されるべきと思いつつ、心のどこかで「でもこのくらい(の人数)なのか……」という思いがよぎってしまったのも事実だ。
それが、研修の三分の一くらいが過ぎた頃からだったろうか、ひとり増え、ふたり増えして、最終的に当初の倍近い人数が場に集っていた。素直に、すごいことだと思う。途中からでも参加しようという気持ちと、関心の高さ。当事者意識をしっかり持っていることのあらわれと言っていいのではないだろうか。

印象的だったのは、演出家の扇田拓也さんが、講師の方のお話にたびたび「うんうん」と(声に出して)相槌を打っていらしたことだ。これは、もしかしたらそう感じる方は多くはないかもしれないけれど、個人的には素晴らしいことだと思っている。
あなたの話をきちんと聞いていますよ、と相手に伝わるように示すことは、相手が話しやすくするために有効な要素になる。「話しやすさ」が担保されている環境は、相手と自分の関係性がフラットであることを示し、それだけでひとつハラスメントが起きにくい土壌づくりにつながる。さらに、この振る舞いを「場に対して強いパワーを持ち得る」とされている演出家がしているということに、とても大きな意味がある。

扇田さんが意識的にされているのか、無意識であるのかまではわからないけれど、どちらにしてもまたひとつ、この座組への信頼が増すのを感じた。
ちなみに、相槌というかたちでリアクションを取られていた方は他にも何人かおられ、素直にリアクションできる空気がつくられているのはいいなあ、さすが再演の座組だなぁとも思った。

質疑応答の時間に発言される方が何人もいた、というのは先に書いたとおりで、そのこと自体も素晴らしいのだけれど、そこに圧力のようなものが感じられなかったのが、あの日、あの場で一番素敵なことだったと思う。
感じたことを述べたいひとは、述べる。周りは真摯に耳を傾ける。かといって、発言しないことが悪いことではなく、発言を聞いてふかく考えたいひとはただしずかに考えることが許容されるという、雰囲気。

時間の制約であったり、異なる考えに触れたときのかすかな揺らぎも内包しつつ、互いの存在を受け入れ、向き合う。
それができるということは、創作現場においてもそうでない場であっても、尊いことだと思う。
 

おわりに

ここまでずいぶん、座組のことを褒めてきた。それはあの場で目にし、感じたことを正直に綴ったまでのことで、だからこそ「この座組なら、ハラスメントは起こらないと思いました」……という、乱暴すぎるくくり方は決してしてはならないし、そもそもできないことなのだとあらためて感じた、というあたりに言及することで結びとさせていただきたい。

レクチャーを聞きながら、何度か頭を抱えた。それは、何がハラスメントとなり、何がハラスメントとならないかという線引きの曖昧さであったり、善意ゆえに被害者を追いつめることになってしまう典型的な例などを聞いたときに自然に出てしまった身体反応で、そっと周りをうかがうと、皆さん同様にむつかしい顔をしておられたのを覚えている。

また、最後に上がったいくつかの感想も、それぞれに切り口がまったく違い、どれも腑に落ちるものだったけれども、総合して何かわかりやすい結論を導くようなものではなかったと思う。

ただ、しいて言えば「安全な創作環境を望むことは、職能がなんであれ人として当然の権利であり、それを作る出発点はひとりひとりの意識である」という認識は共有されたのではないか、と感じた。
そして、そこが共有されていれば大丈夫だ、ということも。

この「大丈夫」は、むろん、ハラスメントの防止を担保するものではない。
人としての尊厳を不当に傷つけられた、と感じるか感じないかは、最終的にはそのひとの感受性にゆだねられる。(第三者から見れば明らかにハラスメントだが、本人がハラスメントと認識していないという事例は別の問題をはらむので、ここでは触れません)

どれだけ心を尽くしても、相手を傷つけてしまう可能性は、残念ながらゼロにはならない。それが他者とコミュニケーションをとるということだ。
けれど、根底に「自明のこととして、創作環境は安全であるべきだ」という意識がある状態とない状態とでは、不用意な言動が立ち現れる可能性に雲泥の差が生まれる。そして何より重要なのは、その意識があれば万一、誰かを傷つけてしまったときにも、その誰かをきちんとケアし、二度と同じことが起きないように策を講じることができる可能性が高くなるということだ。

趣向の主宰たるオノマさんについて、とてもいいなと思うのは、ハラスメントの問題を考えるにあたって「間違えてしまうことがあるかもしれない、でも間違えたら反省して正す」という姿勢を一貫して取られていることだ。
 
間違えたら、正す。
それは「わたしは絶対にハラスメントをしません」と宣言するよりも、はるかに覚悟が必要で、他者に対して誠実であることだと思う。
そうして創作に向かっていくひとたちを、わたしは信頼できると感じている。

11月に見かけたパパイヤの木

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