見出し画像

パンとバラ稽古場レポート④ 豊かな演劇であることと、そこにある愛について(前編)

以下は、12月のとある日、演劇ユニット・趣向の12月公演『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』の稽古を拝見したレポートです。
この作品には、過去に暴力をふるわれた人、現在精神障がいを持つ人が多数登場します。
もしも読んでいて体調が悪くなるなどありましたら、どうかご無理なさいませんよう、お願い申し上げます。
また、内容に言及する箇所もございます。事前に知りたくないという方は、ぜひご観劇後にご覧くださいませ。 (浅見絵梨子)

あらすじ

コロナ禍の合間をぬって、その読書会は行われている。
本を読むことに慣れているわけではないけれど、人生が退屈すぎて、退屈はほとんど恐怖で、わたしたちはここに来る。
カッターを人に預ける。クレジットカードも人に預ける。
『人形の家』を読んでおしゃべりをして、
『サロメ』を読んでおしゃべりをする。
そしてわたしたちは初めて「演劇」をはじめる。

手話通訳≒俳優?!

「今日は通し稽古の予定だったんだけど、舞台手話通訳とのコラボを考える日に変更になりました」

本番前の最後の週末、いそいそと稽古場に向かったわたしに、オノマさんは開口一番、そう言った。
すっかり通し稽古を見学する気になっていたので、内心ですこししょんぼりする。あたためてきた記事の構成も、考え直さなければならない。
しかし、「舞台手話通訳とのコラボ」とはどういうことだろう。
オノマさんも、今までやったことはないんだけどと、言葉を探している。会話のすえにわかったのは、「手話は全身表現である」ということ、「歌のシーンを中心とした稽古になる」ということ。
わかったようで、わからない。

手話通訳が付く演劇公演というものは、まだ珍しいと思う。
最初にその計画を聞いたときは、演劇人としての意識の高さに感心したし、戯曲の性質(社会を眼差したとき、気づかれづらい虐待や貧困を描く)との相性も良いだろうと思っていた。
しかしいずれも「マジメな」視点からの評価であり、それ以上のことを考えたり、感じたりすることは特段ないまま、今日のこの日を迎えていた。

上演時間は、約2時間。手話通訳は、3名の方が交代しながらされるという。
この日わたしが拝見したシーンに登場なさったのは、瀬戸口裕子さん、大平のり子さん、高橋記子さんの3名だ。

17時35分。夕食休憩が終わり、稽古再開。

「瀬戸口さん、『バーン』のタイミングを合わせられますか」
ベータ(前原麻希)と背中合わせになり、手をピストルの形に構える瀬戸口さん。
ベータが一番の歌詞を歌い終え、一瞬の間。
ベータと瀬戸口さんの手ピストルが、ぴったり同じタイミングでまぼろしの火を噴く。
どよめく客席(待機している俳優陣)。

「高橋さん、そこ、ソファに脚かけてみません? あ、オメガは一段上に上がって。そう。並ぶと見えにくくなっちゃうから」
片脚をソファの背にかけ、マイクを構えるオメガ(大川翔子)。
手前のソファの座面に同じく片脚をかけ、客席を見据える高橋さん。
完全に、画面が決まっている。
沸き起きる拍手と、混乱するわたし。

え? 手話通訳って、演技もするの?

後半、現場では「アルコール」と呼ばれている『アルコールとニコチンと』という歌の場面を担当するのは、大平さんだ。
静かな曲調の中、舞台のセットが大きく移動される、その中で俳優に混ざり、なめらかに立ち位置を変えながら手話をつづける大平さん。

恋人の横でうまく眠れない
安心という言葉の意味がわからない
身体はいつも強張って痛い
アルコールでしか緩められない
『パンとバラで退屈を飾って、わたしが明日も生きることを耐える。』上演台本

繰り返しになるが、静かな曲だ。静かで、美しい曲。
つぶやくように、ため息をつくように苦しみをメロディに乗せる俳優たちとは対照的に、手、表情、そして文字通り全身を使って、歌詞のことばを表現する大平さん。

涙が一粒、頬を伝った。

稽古場にて。俳優の榊原さん、舞台手話通訳の大平さん。

不器用なひとたちに手を差し伸べる表現

稽古場に合流してから、約一時間。
いちど挟まれたみじかい休憩の際、手話通訳を担当してくださる、TA-net(NPO法人 シアター・アクセシビリティ・ネットワーク)の方々にお話を伺った(稽古場にいらしていたのは、上のお三方を含め、総勢で6名)。
「手話通訳って、いつもこんな感じな(演出が付く)のですか」という問いへの回答は、「作品の性質にもよるので、そういうわけではありません」。
今回は、座組全体に「一緒に作りましょう」という前向きな空気があるのでいろいろなことを試すことができ、それがとても良い経験になっている、というようなことをお聞きした。
公演にほんの少ししか関わっていないわたしまで、なんだか誇らしくなってしまう。隣にいたオノマさんも、嬉しそうだった。

稽古時間のぎりぎりまで粘り、すべての歌のシーンに演出を付け終えた扇田さんの、最後の言葉が忘れられない。

「なんだろう……この胸がざわざわする感じは……」

言葉を探す扇田さん。
静まる稽古場。
あたたかな沈黙が場を満たす。

一言一句正確に記憶することはできなかったので、わたしが大意として受け取ったものを以下に記します。

「この作品に登場するのは、不器用さゆえに社会のはずれ者になってしまった人たちで、彼らはとても優しいのだけれど、行動ベースで見ると『ちょっと困った』ところも多く、良好なコミュニケーションを取るには困難が伴う。
そんな彼らの、けっして上手には表現できない心の内に、手話という表現が寄り添ってくれている。
外面からは思いもよらない、心の内に渦巻く大きな感情を、手話通訳者が掬いとって全身で表現してくれる、
その姿はまるで、生きづらい彼らに優しく手が差し伸べられているかのようで、たぶん、それが見る人の胸を打つのではないかと思う。」

それは、この日、扇田さんの隣の席で一部始終を見ていたわたしの実感に深く寄り添う表現だった。

ここで記事を下書き保存し、チケット予約サイトを開く。
12月24日、11時の回(ていねいに「託児サービス・手話通訳付」の但し書きがある)。一般、一枚。事前決済。クレジットカード。
購入完了。

もともと、東京公演の初日を拝見することになっていた。劇評を書くためだ。
わたしはいわゆるシアターゴーアーではないので、ひとつの公演に何度も足を運ぶことは、ほとんどない。いま思い出せるかぎり、2度しかない。
それでも、これは観たい。観たいと、思ってしまった。

※手話通訳が付くのは、東京公演では12/24(土)11時の回、
兵庫公演では12/29(木)13時の回。2公演のみの貴重な機会です!

(長くなりすぎたので、後編に続きます)

稽古場に向かう途中。ツルハナスの花。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?