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先祖の話…九字を切る話が出たついで①

九字を切る話が出たついでに、先祖の話をしておこう。
祖父(甚五郎)は父が13才の時に他界しており、子供の育て方などわからなかった父は、勤めていたアメリカ軍の家庭などを見て、当時、憧れであったアメリカの典型的な中流家庭を指標とし、オレを育てたと言っていた。
要するに開放的に育てたということだ。それと同時に、当時のどの親も思っていたであろう、一流大学に入れて一流企業に就職させたいという極々一般的な考えも持ち合わせていた。
母親は近所の国立病院に勤務しており、オレは祖母(喜美)に育てられた典型的なお婆ちゃんっ子である。
祖母は、向島の和菓子製造会社で働いていたのだが、関東大震災の折りに大八車で所沢まで帰り、当地で白仙堂という和菓子屋をやり始めた。
そして、祖祖父の金五郎の連れ合いであるお銀さんという「金銀コンビ」の祖祖母がいるのだが、彼女の出生が、まことに謎なのである。彼女は、いま村山貯水池として知られる狭山湖の水の中に沈められている勝楽寺という村の出身である。
一昨年に残念ながら他界してしまった親戚の長老に、元気なうちに話を聞いておかねばとだいぶ突っ込んだインタビューをしたことがある。
彼の話を再現すると、
「村に入ると荷車一台通れるかどうかの細くまっすぐな一本道があってな、入るとすぐ右隣に広場があり、石段があった」
この時点で、広場と石段という材料でそれは神社だということがわかる・・・。
「石段を登るとお諏訪様があってな、でっかい樫の木が後ろにあり、そのそばに権現様があったんじゃ。」
お諏訪様とはすなわち諏訪大明神のことであり、龍を祀るとともに、伝説ではあるが、甲賀望月三郎を祀っているとも言われている。
権現様とは知っての通り徳川家康のことであり、長老の話によると、昭和4年の堤防工事の折りに放火されて焼けてしまったのだそうだ。
その権現様の放火のあたりがとっても謎を呼ぶのであるが・・・、
「その一本道を行くと左手に中山という家があって、そこにおまえの曾婆さんであるお銀さんが預けられていったということじゃ、なんでも両親は京へ勤王を討ちに行くとかで預けられていったらしい」。
多摩の近辺から京へ勤王を討ちに行くということであれば、新撰組でないにしても幕府方に違いないわけで、その証拠にお銀さんは、葵の重箱とともに中山家に預けられたらしい。新撰組の名簿を見ても、名前がわからないのでは調べようがないが、祖母の姉妹の嫁ぎ先の親戚の末っ子が八王子の荒井家に養子に行っており、その末っ子の娘がいまや超有名なアーティストになっているYさんである。
昨年、逗子のイヴェントが終わってから、そんな話をしていたら、
「じゃPANTAさんも沖田の血を引いてるんだよね」と言われた。
「それで最近、どうも空咳が止まらないのか!」などと冗談で返したのだが、しかし残念ながらオレと彼女は親戚ではあるが、血のつながりはないのである。
家の家紋が九曜星という甲賀望月家の家紋であり、“臨・兵・闘・者・皆・陣・列・在・前”という印を結ぶことを教えられたオレにとっては、どうにもこの勝楽寺という山間の小さな村が甲賀忍者の隠れ里に思えてならないのであった。
事実はどうであったとしても、オレにとっては単にロマンとして興味津々のことであった。
幕府のお庭番である甲賀忍者の一族が、娘を親族に預けて京へ上り、勤王派を討ちに行くという妄想が、頭の中ですでに暴走し始めてしまっていたのである。

※このテキストは、かつて第一興商の音楽ファンサイト「ROOTS MUSIC」に連載されていた文章に、大幅に加筆修正したものです。

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