『やりたい事』のレベルを下げたら生きるのが楽になった


長ったらしいのは嫌いなので結論から書くと、表題の通り少しだけ生きるのが楽になった。他人と自分を切り離すことがこんなにも精神の安定につながるとは思わなかったし、どうして誰も教えてくれなかったの?
私は今、やりたい事をして生きている。人とはほんの少しだけ違うけど。

昔から「これがやりたい」と声に出すのが苦手だった。周りの反応が怖かったし、何より好きな事でも最後までやり通す根性が無い事は自分が一番よく分かっていたから。今考えると別に最後までやり通さなくてもとりあえず手を出すことが大切なのだと思うけれど、当時はそうは思えなかった。そもそもにして幼少期より父親の支配下において、自分の考えというものは尊重される事など無かった。だから、自尊心や自己肯定といった機能は元より私には備え付けられていない。

ピアノがやりたかった。音楽が好きだった。でも、吹奏楽は中学で辞めたかった。魔法ステッキも好きだけど、かっこいい武器も好きだった。好きな事をもっと学んで、仕事にしたかった。
唯一の趣味とも言えた読書でさえ、学生の頃に履歴書に書いたものを赤い二重線で消されてしまった。趣味が読書はつまらないらしい。分かっているつもりだ。自信をもって言える趣味が無い人間が書くワード第一位、読書。文字だけ見たら、私が一ヶ月で一冊読む人間なのか百冊読む人間なのかは分からない。ツッコまれるとも限らない項目に無難なワードを書く事を、進路科の教師は一番嫌っていた。それでも私の個性はたった二本の線に消されてしまい、一度均された山はもう元には戻れない。

やりたい事も趣味も無くなってしまった私には、どうしても他人が羨ましく見えてしょうがない。好きな事を学びに出た友人が羨ましい。転職してやりたい仕事に就けた同期が羨ましい。理由を探しては何も出来ずにいる私とは全く違う彼らが、心底羨ましかった。だって私は何も出来ていないのに。今は時期じゃないから。お金がかかるから。いつもそうやって言い訳を付けては行動に移さず、環境のせいにしては『かわいそうな自分』に酔っている。自分に原因があると分かっていても、そんな現状から脱却する術を私は知らなかった。あちら側の人間は簡単に「やりたい事をすればいい」なんて言うのよね。それがどんなに難しい事なのか彼らは知らない。

でも、ふかふかの布団で寝ているとき。おいしいお菓子を食べたとき。お気に入りの服とメイクで、大好きな友人と出掛けたとき。考えてみればどれもこれも私の「やりたい事」に間違いがない。何も仕事やQOLに直接関することじゃなくても、少しレベルを下げるだけで身の回りはやりたい事で溢れていた。

……まぁ、未だにもやっとすることはありますが。暫くインスタ見るのを辞めて、他人の生活に必要以上干渉しないようにしたらだいぶ楽になった。今はもう見てるけど、それでもなるべくストーリーは追わないようにしている。そうやって強制的に自己と他人を区別することで、だんだんと自分だけの基準を作っていくことが出来る。もしかして人生謳歌しているような方々って無意識にこれを行っていたりします?いや、凄すぎる。もう少し早く知りたかった。

周りよりちょっとレベルを下げた私だけの「好きな事」と「やりたい事」で、少しずつでも前に進みたいな〜というのが最近のやりたい事。
他人が羨ましくても、隣の芝生はなんちゃらって言うしね。

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