昭和史に消して残らないpan.の物語1
大阪生まれ高知育ちの私
恥の多い生涯を送ってきました(by太宰)
と言えるのは小学生のころまで
それ以降は
恥をかかないように
失敗しないように
傷つかないように
自分を守りながら生きてきた。
そんな自分を
少しだけ、いや、がっつり、振り返ってみようと思う。
小学生のころは、本当に心も体も小学生だった←当たり前
他人に対し遠慮がなく
自分を押し通すことができた。
思慮深さからほど遠くて
自分の欲望に忠実で
考えるより先に口から出たり行動に移したりする
そんな小学生だった。
よくいえば子供らしい
悪く言えば理性がない
世界の中心は常に自分だった。
保育園の時の記憶はほぼない。
ひとつだけエピソードとして刻まれているのが
カニのお絵描きをしているときに
下手だと先生に言われたこと。
まったく恨んでないし
そもそも どの先生に言われたのかも覚えてない。
ただ
それ以降ずっと、絵を描くことがコンプレックスだった←実際下手だった。
小1のとき妹が生まれた。
親の愛を一身に受けていた私は愛情が妹に注がれることが許せなかった
みたいなエピソードは特になく
割と能天気に毎日を送っていたと思う
たぶん。
だけど
親の分かりやすい愛情を欲していたのは本当だったらしく
フルタイムで看護師をしていた母に
仕事を辞めて家にいてほしい
毎日おやつを作って学校帰りの私を待っていてほしい
と
力説したらしい。
小学校高学年になって
仲の良い友達が進学塾に通っていることから
私も行かせろとせがんだ。
ほとんどの子は近隣の補習塾に通っていた当時
バスに乗って進学塾に通い始めた。
成績は悪くなくて
模擬試験を受けるとランキングに載るくらいの成果は出ていた。
でも
中学受験をすることなく進学塾をやめてしまうことになる。
体を壊して
とかいうもっともらしい原因ではなく
少し早めにきた反抗期で
何もかもが嫌になったからだ。
私の反抗期はほかの子に比べると壮絶だったと思う。
家出して徒歩15分の親戚の家に駆けこんだり
家出したふりをして家の押し入れに隠れたり
屋根に上って庭に生卵を投げつけたり←どこのバラエティ番組だよ
何に対して怒っていたのかは不明だ。
ってか
反抗期ってそもそも何に対して怒ってるのかわからないものだと今ならわかる
自分を持て余しているのだ。
中学生になって
バスケット部に入部した。
母からは反対された。
反対の理由は体力的なこと。
当時、自律神経失調症やてんかんの治療をしていたため、ハードな部活動は無理だと思ったのだろう
すぐに音を上げると思っていたに違いない。
予想に反して私は
大学一年が終わる春休み、ケガによる手術でやめるまで7年間
バスケットを続けることになる←プチ自慢
話を戻す。
壮絶だった反抗期は
部活動による身体酷使で
持て余しているパワーが削られたことにより
さっさと終焉を迎える。
よかったねお母さん
屋根に上って卵を投げていたあなたの娘さんの行為は
走り回ってボールを投げるという代替行動で
社会的に適したものになりました。
この反抗期が
私の人生の中で
もっともカラフルなエピソードかもしれない。
ほかには
特段非凡な逸話はなく
以降は平凡を絵に描いたような
大きな挫折も大きな成功もない人生を送ることになる。
次回へ続く
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