神武東遷を縦横斜めから眺めてみれば 2

1が前編です。1からお読みください。

(5)東征が東遷か
 本稿では、一貫して、東遷という言葉を使ってきた。
 東征というと、戦争して征服しながら東方に勢力を広げていったというイメージがある。例えば、モンゴル帝国が領土を広げながらヨーロッパまで西進していった事例がこれにあたる。
 対して東遷というのは、単に東に場所を変える、移るという意味合いである。遷都、遷宮、左遷などの熟語をみても、A地点からB地点にワープするようなイメージだ。
 前述したとおり、神日本磐余彦一行は、生駒山を越えて長髄彦と交戦する前、難波に至るまで船で移動している。途中数か所で饗応されているが、土地の豪族と交戦しその地域を支配下においたという勇壮な記述はない。
 東遷のおおまかな出来事は以下のとおりである。
・ 太歲甲寅10月 :東に向かうとして出港(日本書紀には出発地は明記されていない)。
・ 太歲甲寅冬 :筑紫国菟狹(大分県宇佐市)に到着。一柱騰宮(アシヒトツアガリノミヤ)で饗応をうける。
・ 太歲甲寅11月 :筑紫国の岡水門(オカノミナト・福岡県北九州市)に到着
・ 太歲甲寅12月 :安芸国の埃宮(エノミヤ・広島県府中市)に到着
・ 乙卯年春3月 :吉備国に仮宮として高嶋宮(比定地は定まっていない)を作る。3年滞在。
・ 戊午年春2月 :難波之碕に到着、次いで3月河内国の草香邑の青雲の白肩之津(大阪府枚方市あたり??)に到着。弥生時代は現代より海面が高く、現大阪府はほぼ水没している。弥生時代の河内湖の範囲をみると、ここまで船で乗りつけられる。
・ 戊午年夏4月 :ようやく船を捨てて上陸。生駒山を越えて大和盆地に入ろうとしたところで、長髄彦に迎え撃たれる。東に向いて戦をするのはよくないよね(サッカーかラグビーか??)と言い訳して退却。
 なお、この後紀伊半島を半分ほど回って熊野から再上陸し、土地の豪族とのあいだで戦闘と調略を繰り返しながら紀伊山地を分けいり、大和盆地南部(桜井市あたり)に降りて、長髄彦と再戦する。ここからひと悶着あるものの(物部氏とか饒速日とか話が逸れるので略す)、最終的に橿原の地に都をおく。

 長髄彦に遭遇するまで、戦争をしてないのである。
 この動きに着目すると、何らかの理由で日向にいられなくなった神日本磐余彦一行が船団を組んでどんぶらこっこを新天地を目指し出港、途中、宇佐や筑紫、安芸、吉備で滞在しつつ、最終的に大和盆地に入植した植民運動と解するのが自然、となってくる。
 なにしろ、全く陸路を使っていないのだ。この記述をもって東征と同時に、王権が西から東に伸張していった(九州の邪馬台国が東に勢力を伸ばした、といったような)と読み取るのは、ちょっと無理がある。


 世界を見渡せば、一代でギリシャからペルシアを征服しインドに迫り、エジプトまで征服したアレクサンダー大王がいるので、九州から奈良まで一代で征服した人物がいても不思議はない。しかし、実際にそうなら、地方での戦闘記録が、地方にも記紀にも、もっと残されていていいだろう。個人的な話で恐縮だが、筆者は筑紫の岡田宮がある北九州市に住んでいる。しかし岡田宮以外に、神日本磐余彦の足跡を残す地名や史跡が(寡聞にして知らないだけかもしれないが)、全く残っていない。景行天皇の帝踏石とか、神功皇后関連の神社はいくつかあるので、神日本磐余彦(に象徴される大和政権の祖)が戦闘を繰り返しながら東に兵を進めたのであれば、もう少し何かしら残っていてもいいのではないか。
 一方、海をおさえて、支配領域を広げるという海洋国家的なやりかたももちろんある(ローマ帝国やヴェネツィア共和国のような)。だが、大和王権の重んじる神が農耕にかかわる神(瓊瓊杵尊や天照)であり、海上交通の神である道主貴(みちぬしのむち、宗像三女神)や住之江の大神が脇におかれていることから考えると、海洋国家説は無いというか、可能性の検証(というか潰し)でしかない。
 さらに付け加えると、神武東遷後、崇神天皇は国内平定のため、四道将軍を地方に遣わしているし、景行天皇は九州平定に乗り出している。九州方面から支配領域を広げて大和に都した、という流れ(東征説)は、以上の理由から、ちょっと無理があるのでないか、というのが私の意見である。

(6)創世神話と貴種流離譚の類例
  東遷のルート図をつらつら眺めていると、ある類例が思い当たった。そこそこ興味深いと思われるし、比較文化論というか参考になると思われるので、紹介したい。少々長くなるがお付き合いいただきたい。


 紹介するのは、ローマ建国の祖となったアイネイアースの物語である。
 トロイア戦争といえば、あまり西洋史に詳しくない方でも、小耳に挟んだことがあるだろう。概略はこうである。トロイの王子パリスが絶世の美女ヘレネ(ギリシャのスパルタの王妃)を略奪した。スパルタ王メネラオスは兄ミケーネ王アガメムノンと組んで、ギリシャ中の英雄を率いてトロイに攻め込み、オデュッセウスの奸計(トロイの木馬)をもってトロイを陥落させたというあらすじだ。
 このとき、陥落するトロイの都から、一人の王子が脱出した。名をアイネイアース。トロイの王族を父に、愛と美の女神アフロディーテを母に持つ王子である。
 アイネイアースは、陥落し燃えおちるトロイの都から、老父と幼い息子を連れて脱出し、地中海に出た。そして、デロス島、クレタ島などエーゲ海を放浪し、シチリア島、カルタゴ(アフリカ大陸、現チュニジア)を経て、イタリア半島のラティウム(後のローマ)に辿りつく。そしてこの地の王女ラウィーニアと結婚し、新都市ラウィニウムを築く。アイネイアースから数代後に、ロムルスとレムスという、軍神マルスの血を引く狼に育てられたという人物が現れ、具体的なローマ建国の祖となっていく。
 ご興味を持たれた方は、ウィキペディアなどでじっくりとご覧いただきたい。

 いわゆる貴種流離譚の創世神話であるが、この構造、神武東遷と似ていないだろうか。
 トロイ=日向、地中海の島やカルタゴ=宇佐、筑紫、安芸、吉備、ラティウム=大和。
 また、流浪してきた人物でなくその子孫が実質の建国に関わっていることも、奇遇なことに共通している。
 アイネーアース=神日本磐余彦、ロムルス=御間城入彦。

 今でこそシュリーマンの発掘により、トロイが伝説ではなく実在した都と知られているが、紀元0世紀のローマ時代既に、トロイア戦争は神話・伝説の世界だった。トロイア戦争を描いたホメロスの詩『イリアス』の成立は前8世紀、実際にトロイア戦争があったのは紀元前13世紀ごろと推定されている。当時にして既に1300年前の話なので、すでに神話・伝説であったというのが、うなずいていただけるだろうか。
 さて、トロイはトルコ西部に位置している。遙か後代の我々の眼では、「トルコの子孫を名乗ったの?」となるが、当時のローマでは、ローマ世界の一地域であるし、神話に謳われた、繁栄を極めた都といった程度の位置づけだろう。もちろん、地勢的な利害は存在しない。神話上の、しかも滅亡した都なのだから、外交問題には発展しない、ここは抑えておきたい。
 
 もう一点、アイネイアースの物語について、ひきあいにだしたい点がある。
 アイネイアースが陥落するトロイから脱出し、地中海を放浪して、ローマの祖となった神話は、ローマ時代すでに知られていた。これを、紀元0世紀、ラテン文学最大の詩人、ウェルギリウスが『アエネーイス』という詩にまとめた。ウェルギリウスがどれだけ偉大な詩人であり、後世に影響を与えたかは、これもウィキペディアなど見ていただくとわかりやすい。
 『アエネーイス』はウェルギリウス最晩年の作品で、最高傑作とされているが、未完のためウェルギリウスは草稿を焼却するよう望んだと言われている。しかし、この詩の発表に強く関与した人物がいた。誰あろう、ローマ帝国初代皇帝アウグストゥスである。
 カタカナ名前の話を続けて申し訳ないが、まだしばらくお付き合い願いたい。アウグストゥスの人物像を見ることで、なぜアウグストゥスが『アエネーイス』を発表させたか、その政治的意図が見えてき、それはとりもなおさず大海人皇子の意図に重なってくるのである。


 西洋史は苦手という方もおられようので、アウグストゥスの来歴についてご紹介したい。ローマ帝国の歴史について若干ひも解くことになるが、お付き合いをお願いする。
 ローマ帝国は、王政から貴族による共和制に移行し、アウグストゥスの時代に帝政に移行した国家である。帝政への移行を推進したのが、ユリウス・カエサル。カエサル自身は皇帝に即位していないが、のちのカイザーとかツアーリの語源になっている。
 ユリウス・カエサルは、共和制に行き詰まりを感じ、帝政への移行を進めるなか、暗殺された。「ブルータスおまえもか」というセリフは、西洋史に興味がなくても聞いたことはあるだろう。
 ユリウス・カエサルが暗殺されたとき、その遺書のなかで後継者として指名されたのが、アウグストゥスである。アウグストゥス(=尊厳者)というのは尊称なので、本名であるオクタヴィアヌスとこれから表記する。オクタヴィアヌスは当時18歳、ローマ政界でも無名の少年であった。

 ユリウス・カエサルは、名が示す通り、ユリウス一門(=ユリウス氏族)という、ローマでも古い名門貴族の嫡男である。なにしろユリウス一門の祖先は、先ほど紹介したアイネイアースにつながる。名門中の名門である。ユリウス・カエサルの名前は、正しくは、ユリウス・ガイウス・カエサルという。ユリウス一門のカエサル家のガイウス君といったところである。生まれた時から元老院の議席を確保され、ローマ政界を担うべき貴族として成長した。カエサルはガリア(いわゆるアルプスのむこう、フランス、ドイツ)を制圧し内乱に勝利して権力を手中にしていき、帝政まであと一歩というところで暗殺された。カエサルには正妻がある他、当時から有名な艶福家で数々の愛人がいたが、後継ぎとなるべき男子には恵まれなかった。女子はおり、またプトレマイオス朝エジプトの最後の女王クレオパトラとの間には男子と女子がいるが、後継ぎとなる男子は得られなかった。そこで、後継者として指名し、養子に迎えたのが、同じユリウス一門に属する、しかし貴族の家系ではなく騎士階級の生まれのオクタヴィアヌスである。
 カエサルの人物眼は確かであった。オクタヴィアヌスは、カエサルの死後遺書が開封されたときには全くの無名であり実力もなかったが、第二次三頭政治などを勝ち抜いて、紀元前27年、36歳のとき政敵をすべて倒すことに成功する。そして、元老院からアウグストゥス(尊厳者)の尊称を送られ、以降、紀元14年75歳で没するまで、皇帝としてローマ帝国の基礎を固める政治をおこなっていく。
 アウグストゥスの業績については、ぜひウィキペディア他を参照していただきたいが、今回着目したいのは、アウグストゥスという男が、ユリウス・カエサルと異なり、自分の血筋に権力を継承させることに非常に拘ったという点である。
 アウグストゥスもまた男児に恵まれず、実施は女子のユリア一人のみ。妻の連れ子であるティベリウスが非常に優秀であったため、後継者候補としたが、実際に後継者となるまでの紆余曲折がすさまじい。
 アウグストゥスは自らの血を継がせるべく、まずは、娘ユリアとティベリウスを結婚させた。ティベリウスにはヴィプサーニアという妻がおり、子もいたというのにである。ユリアもまた初婚ではない。死別しているが二人前夫がおり、2名の男子を含め5人の子を生んでいた。アウグストゥス直系の孫を連れての再婚というわけである。仮にティベリウスに帝位を継ぐにしても中継ぎであり、自分の孫に帝位を継がせるという意思表示だ。
 また、おのれの血を継がせる策略は、これに飽き足らない。ティベリウスの後継として、アウグストゥスの血縁であるゲルマニクス(姪の子)を養子に取らせたのである。

 アウグストゥスの養父カエサルが、何の条件も付けずアウグストゥス(=オクタヴィアヌス)を後継者に指名したのとはずいぶんな違いである。この執念ともいえるような血への執着は、当時最高の詩人ウェルギリウスがものした傑作『アエネーイス』を作者の意思に背いて発表させたこととリンクしている。
 すなわち、ローマ建国の祖アイネイアースに連なるユリウス一門という、血筋の差別化、神格化。
 人口に膾炙している伝説であっても、それを最高の詩人が朗々と謳いあげた詩として形を持たせること、明文化することは、具体的な力となって現実に影響を及ぼすのである。

 このようにみてくると、神武東遷の神話を記紀に組み込んだ大海人皇子、ひいては大和政権の意図が見えてこないだろうか。
 古い歴史に裏付けられた王権(古ければ古いほどいい)、それを明文化する政治的な意図。
 またもう一つ言えることは、完全なウソもつきがたいということである。叙事詩『アエネーイス』はウェルギリウスの著作であるが、ストーリーは創作ではない。すでにあった伝説を、最高の詩人の言葉で勇壮に謳いあげたものである。ローマ時代の質実剛健をもって良しとする気風を考えれば、祖先はアプロディーテ―女神よりアレス神のほうが好ましかったと思われるが(ロムルスとレムスはマルス神とアイネイアースの子孫であるシルウィアの子供)、既存の伝承を無視して神話を作ることまでは、最高権力者の権力をもってしても、無理なのである。無名な者が祖先の伝説を作ることは可能だが、一定の知名度を得た後に歴史を捏造することは不可能なのだ。

 とすれば、神武東遷をどのようにとらえることができるのか。
 この、長々とした西洋史への旅に出る前に結論付けたように、大和政権の祖は九州南部から流れてきたという伝承自体は、記紀編纂当時すでにあったと推定できるのである。

(7)終わりに
 以上、一般に知ることのできる事実を積み重ねて、神武東遷について検証してきた。
 当時の状況として、できるだけ古く権威のある創世神話を、正式に編纂する必要に迫られていたこと。国内は中央集権とは程遠い状況であり、他の豪族が根拠地としている地域を神日本磐余彦の出身地とはできないこと。大海人皇子に至るまでの系譜で幾許かの年数が経過しており、帝紀・旧辞などが大王家だけでなく各家にも伝わっており、ある程度周知されていたであろうことを踏まえると、完全な作り話はでっちあげられない。よって、少なくとも当時、大和王権の祖が日向地方から流れてきたという昔語りが、ある程度確からしい話(事実かどうかは別として)として伝えられていたと推定できること。
 また、ローマの建国神話が非常に似た構造を持つことから、比較検討してそれぞれの役割がみえてくるということ。完全に伝説上の人物として、神日本磐余彦とアイネイアース。神日本磐余彦は東遷の伝説を持ち、アイネイアースは陥落するトロイを脱し地中海を放浪してラティウム(後のローマ)に至る伝説に彩られる。もちろん、源流となる場所は、同一文明の圏内であること。そして、実在性がほぼ認められる人物として、数代後のロムルスと御間城入彦(ミマキイリヒコ=崇神天皇)。その神話を王権の強化に利用したアウグストゥスと大海人皇子。
 

 神武東遷の検証の一つとして、そういう見方もできるかもね、と思っていただければ幸いである。


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