神武東遷を縦横斜めから眺めてみれば 1

 神武東遷が史実か否か、日本古代史の大人気の論争の一つである。立証する術がないので、結論など出しようもないと個人的には思っている(と言った瞬間に実在論者から百叩きにあいそうで怖いが)。
 しかし、その周辺事情、それも一般に知られている事項をあれこれともてあそんでいたところ、一つの発想(アイデア)にいきついたので、本稿ではそれをまとめてみようと思う。

【お願い&お断り】
 記紀の原文・訳文をはじめ、神武の東遷の経路図などはネットで検索可能ですので、適宜グーグル先生等で参照しながら読んでみてください。
 また、万事が「諸説あります」の時代を取り扱うので個別に「諸説あります」の注はいれません。何をオーソドックスとし、何を異説とするかもセンシティブな問題なので、この点についても断り書きはしません。悪しからずご了承ください。

【天皇の呼称について】
 できれば諡号でなく、当時呼ばれていたであろう呼び名に統一したかったのですが、知名度によりわかりにくすぎるため、節操なく併用します。こちらも、悪しからずご了承ください。

 (1)記紀に記載されることの意味とは
 冒頭に書いた通り、神武東遷の歴史的事実性や年代などを立証する術はない。しかし、確実なことが一つある。神武東遷の記事が、古事記・日本書紀(=記紀)にあるということだ。古事記中巻、日本書紀巻の三にそれぞれ記載されている。どんな懐疑的な方であっても、記紀に記事があること自体は認めざるを得ないだろう。
 では、記紀(特に、日本書紀)に記載されるということは、どんな意味を持つのだろうか。唐突だが、ぜひ皆さん立ち止まって考えてみていただきたい。

 答えは簡単。編纂時の政権(天武天皇~元明・元正天皇)が、公式記録として、自らの王統、すなわち大和王権の起源として日向の地を採用したということだ。

 なーんだ、何も新しくねえな、と思われただろうか。
 しかし、王権の起源をどこに求めるか、すなわち建国神話をどのように定めるかは、当時の日本にとって重要であり、軽々に取り扱えるようなものではなかったはずである。
 ここを出発点に、この問題を掘り下げていきたい。

(2)記紀とはどういう書物なのか
 まず初めに、古事記と日本書紀の成立およびその性格についておさらいをしたい。概略がつかめればよいので、ウィキペディア先生などで調べていただくと一発である。
 
 日本書紀は、日本最古の正史である。言い換えれば、大倭豊秋津島の国の始めからの歴史を公的に記録し公表した公文書である。大海人皇子(=天武天皇)が681年に編纂を命じ、720年氷高皇女(元正天皇)の時代に成立したとされている。
 一方古事記は、日本書紀と重複した話を採録しているものの(出雲神話の取り扱いについて顕著な差異がある)、公的な位置づけは不明である。そのせいで、太安万侶の木簡が出土するまで偽書扱いされた歴史がある。編纂の詔を発した年は不明だが、大海人皇子が在位中に編纂を詔を発し、712年(和銅5年)に阿閇皇女(=元明天皇)に進上された。
 ざっくりまとめれば、いずれの書物も、大海人皇子が編纂を命じ、約40年後にようやく成立し、時の帝に進上されたということである。なお、阿閇皇女は大海人皇子の息子の嫁、氷高皇女は阿閇皇女の娘で大海人皇子の孫にあたる。文章による説明ではわかりにくいので、ウィキペディア等で系譜を見ていただければ幸いである。
 編纂を命じた大海人皇子から、その妻である鸕野讚良皇女(=持統天皇)、阿閇皇女(=息子の嫁)、氷高皇女(=孫)の時代は、藤原氏の権勢伸張著しく、対する大王家の力が弱められていく過程である。だが、歴史書を書き換え、塗り替えるような革命的な政権交代はなく、むしろ巧妙に、藤の蔦のように絡みつき絡めとり、いつしか絞め殺して成り代わるようなやり方がとられた。
 阿閇皇女も氷高皇女も、偉大なる天武朝の祖、大海人皇子の血を強く意識しながら政治に取り組み、やり残した事業を引き継ぐという形で、記紀を成立させたと推察される。本題から少し逸れるが、大海人皇子の後を継いだ妻鸕野讚良皇女(=持統天皇)は律令の整備や新都建設を先決としたため、歴史書の編纂事業が後回しにされたものと思われる。編纂が命ぜられてから約40年後の成立とは、何とも遅い印象だが、政権の流れからみて、同じ意図に沿って成立したと考えてよい。藤原氏の都合の良いように書かれているという側面はあるが、少なくとも本稿で俎上にあげている神武東遷のくだりについては、藤原氏の干渉を受けていないといえよう。

 では、当時の大和王権にとって、記紀すなわち国史を編纂するということは、どのような意味を持ったのだろうか。

(3)記紀編纂に至る周辺事情
 国史編纂事業が行われた経緯について、当時の社会情勢・政治情勢からおさらいしてみよう。内容は、高校の歴史の教科書レベルである。
 
 まずは国内の状況から見てみよう。
672年大海人皇子は壬申の乱に勝利し、近江大津京(滋賀県大津市)から飛鳥浄御原宮(奈良県明日香村あたり)に都を移し、天皇として即位した(天武天皇)。壬申の乱は日本古代最大の内乱とされるが、実態は天皇家の相続争いであり、期間は672年7月24日から8月21日まで、戦場は琵琶湖を中心に、奈良、三重、岐阜、京都、大阪あたりで収まっている。関わった豪族も、美濃・伊勢・伊賀など紀伊半島の付け根あたりの豪族のみで、天下分け目の関ヶ原の合戦が、日本列島各地の戦国大名を巻き込んでの決戦だったのとは大違いである。
関ヶ原合戦では、大名は自らの生き残りをかけて、どちらが勝ち馬であるか見抜き馳せ参じなければならなかった。負け側につくことはおろか、高みの見物など洒落こんだあかつきには、それを口実に攻め滅ぼされる可能性もあった。
この状況を比べると、当時の大和王権の支配力の脆弱さが見て取れる。
全国一律の税制である租庸調制が正式に導入されるのは、701年の大宝律令とされる。大和王権は倭の五王の時代あたりから、日本の宗主(外交権を持つ存在)として認められていただろうが、中央集権とは程遠い。地域の実権は地方豪族は依然としてしっかり握っていただろう。例えば、宗像大社で有名な福岡県宗像市・福津市の古墳群は5~6世紀に建造されており、その繁栄ぶりを伝える沖ノ島の奉献品が最も豪華になるのは5世紀後半のことである。豪族は服属の証として、娘を天皇の後宮にいれたが、人質というよりは外交であり、情報収集の窓口ではなかったか。
 もちろん、当時の地方豪族が、中大兄皇子(=天智天皇)の後継をめぐるきな臭い空気を嗅ぎ取っていないわけはない。だが、高みの見物を洒落こんでまったく問題がなかった。その証拠に、壬申の乱後の論功行賞において、何の行動も起こさなかった地方豪族が何らかの処分を受けた記録はない。江戸時代に諸藩が幕府を恐れたような絶対的な権力は存在せず、まさに大王としての地位は認められていたものの緩やかな服属関係を結んでいた、これが当時の国内の状況である。

 一方国外に目を転じると、大陸では唐(618年~907年)が、さながら周辺国家を次々と飲み込む津波のように、旭日の勢いで勢力を拡大していた。時は第3代皇帝高宗(649年~683年)の時代。高宗は、隋以来の懸案事項であった高句麗征伐を成功させ、ここに朝鮮半島で長く続いた百済・高句麗・新羅の三国時代は終わりを告げる。先んじて百済が、唐・新羅により、660年滅亡している。この後、友好国百済の復興支援のため、日本が663年出兵し、唐・新羅の連合軍により大敗を喫したのが白村江の戦である。中大兄皇子は唐の侵攻を恐れて九州に防人を置き、水城を築いた。
 獅子の眼前の子猫のようなものである。幸いその後、唐と新羅の戦争(670~676)が起こり、新羅が朝鮮半島を統一したため、一気に唐に飲み込まれることはなかったが、変わらず危機的な国際情勢であったから、大海人皇子は一刻も早く、一人前の国家を形成する必要性を痛感していたはずだ。大国、唐と伍していくために、唐を手本とした中央集権型の律令国家を形成する必要があった。実態はともかく、唐と対等交渉できる国家の体裁を整える必要があったのだ。
外交という、一歩間違えれば国の存亡に関わる政治のなかで、過去、聖徳太子が隋の煬帝に対し「日いずる処の天子」と名乗りをあげたように(この国書にもいろいろ説はあるようだが)、はったりにせよ先進国のふりをする必要があった。
 そこで、律令と並んで整備を急がれたのが、国史(正史)である。言うまでもなく、中国は史書があってなんぼの国。中国にいっぱしの国として認められるためには、国史(正史)がなければならない。そして国史を整備するのであれば、箔をつけるため、歴史はできるだけ長く、王朝の祖先に神をもってくる。それが、建国神話の常套手段である。
 


(ちょとした余談)
 余談だが、唐に追いつけ追い越せの政策の一つに、日本古来の髪型である角髪(みずら)の禁止がある。唐に従った結髪にせよというわけだ。明治維新時の散切り頭を彷彿とさせるエピソードで、歴史は繰り返す例の一つとしてほほえましい。全国の角髪ファンの皆さん、恨むなら大海人皇子を恨みましょう。


(4)日向じゃなきゃいけないんですか
 ここまで、なぜ記紀を編まねばならなかたのか、その国際状況を見てきた。また、当時の緩やかな王権体制と国内状況をみた。この中で、どのような舵取りで国史編纂に臨んだのかをみていきたい。

古事記編纂の経緯と目的については序文に記載されている。現在の法律が、第1条に法律の目的を謳うのと相通じるところだ。ここに一部を抜粋する。
[以下抜粋]ここに天皇詔りたまわく、「朕聞く、諸家のもてる帝紀および本辭、既に正實に違ひ、多く虚僞を加ふと、今の時にあたり、その失を改めずは、いまだ幾年を経ずして、その旨、滅びなむとす。これすなわち邦家の經緯、王化の鴻基なり。故、これ帝紀を撰録し、旧辞を討覈して、偽りを削り、実を定實めて、後の葉に流へむと欲ふ」とのりたまひき。[以上]
諸豪族家に伝わる帝紀(天皇の系譜を記録したもの)、本辞(旧辞と同じく伝承を記述したものか)に齟齬が生じ、虚偽も加えられているので、真実が失われないうちに正して後世に伝える、とこのような意図である。

 しつこいようだが、記紀、特に日本書紀は、国の歴史を正式に定めたものである。言い方を変えれば、日本書紀に書かれたことは王権が歴史的事実として認めたということである。
 ここで、一つの疑問が生じる。
 なぜ、大和王権は、王統の源泉を、南部九州の日向に設定したのだろうか。
 王統の祖先を神に求めるのは、世界共通の神話の機能である。神話とはそのためにあるものと言っても過言でない。ギリシャ神話において神々の王ゼウスが好色なのも、各地方の都市国家が、うちの最初の王様はゼウスが人間とのあいだにもうけた子でね、という箔付けのため利用したからである。
だから、日本書紀において、神である瓊瓊杵尊が地上に降り、その血脈が大王家に連なっていることは、建国神話として妥当な設定だ。
しかし、瓊瓊杵尊が天降ったのが日向の襲之高千穗の峰とされたのはなぜだろうか。
 王権の原初の地をどこに求めるかは、とても重要だ。仮に、「まあ遙か遠方から到来したほうがなんとなく有難みがあるよね」という安易なイメージで選んだとしよう。記紀にも見える通り、日本の古代は朝鮮半島と切っても切れない関係にある(古代に限らないが)。海の向こうでもあるし、ちょうどいいから大王の祖先は朝鮮半島から来ました!などという話にしたらどうなるか。
 書いているだけで炎上しそうで怖い。
そう、とんでもない話だ。属国化の口実を与えかねない。僅かでも優位に立ってマウントをとるべき外交戦略に、大変な弱点を抱えることになる。
それは、日本国内におきかえても、同じことだ。
 先ほどのおさらいに戻るが、国内の諸豪族の力は依然として強く、大和王権の支配力は緩いものだった。地方豪族の実質支配を認め、その証として国造などの官位を与え、対する地方豪族は大和王権の主権を認めた。表面上なんとか平穏を保っている状況下で、藪から蛇をつつきだすような危険な選択肢は取らないはずだ。

 では、もう一度先ほどの問いに立ち返ろう。正式な国史である日本書紀において、天孫降臨の地を日向の襲之高千穗の峰としたのはなぜか?
逆に、なぜ他の地域を選ばなかったのか。候補になりそうな地域を幾つか挙げて検証してみよう。
まず出雲。出雲は実は、初期大和王権と関係が深い。神日本磐余彦の皇后は、媛蹈韛五十鈴媛(ヒメタタライスズヒメ)で、その父は三輪の大物主の神、または事代主の神とされる(系譜については、グーグル先生でご確認ください)。大物主の神は出雲の大国主命の幸魂奇魂だし、事代主の神は大国主命の子。母親の名前は古事記では勢夜陀多良比売といい、タタラという名前を引き継いでいるのでたたら製鉄を守る巫女的な名前といえ、製鉄=出雲の関係を否が応でも彷彿とさせる。しかし記紀に描かれた出雲は、国譲りという神話を付与され、そのうえ黄泉の国というイメージで糊塗されている。どのような理由で、このような扱いになったのかはわからない。しかし、そのような性格付けがなされるだけの事情が、そこにあるはずだ。ともあれ出雲は、初期王権と深い関係を持ちながらも、王権の源流の地には採用されず、国譲りという不可解なエピソードを付与された。
次に越はどうだろう。越は、男大迹王(ヲホドノオオキミ=継体天皇)の出身地である。神日本磐余彦に始まり実存する最初の天皇と言われる御間城入彦(ミマキイリヒコ=崇神天皇)から続く皇統は、男大迹王のところで不自然な途切れ方をする。武烈天皇で直系が絶えたので、誉田天皇(ホムダノスメラミコト=応神天皇)の5世孫である男大迹王が越から婿入りのような形で即位する。三輪王朝から河内王朝への王朝交代説である。男大迹王から大海人皇子までの系譜はすんなりつながる。これから中央集権を進めようという大海人皇子の祖先としてエポックメイキングな存在なので、天孫降臨の地を越にして男大迹王より前の系譜を闇に葬るという選択肢もあったのではないか。しかし記紀の記述は、王朝交代を曖昧にぼかしており、神日本磐余彦の血統を尊重して引き継いでいる。王統の永続性というものは、その血統に霊威を与える。古ければ古いほど有難みが増すという事情を考慮したのかもしれない。また、越は、出雲との関係が深く、大国主命は越からも妃をむかえている。この辺の事情がどう絡み合ったのか、結論として、越を王権の源流の地とすることはなかった。
第3に、大和や伊勢でなかったのはなぜだろう。何か不都合があったのだろうか。
記紀編纂時、アマテラスの地位はたかめられていた。日本書紀では御間城入彦(ミマキイリヒコ=崇神天皇)の時代、皇女豊鍬入姫命に命じて宮中に祭られていた天照大神を大和国の笠縫邑に祭らせたとあるが、実際に皇祖神として位置付けたのは、ほかならぬ大海人皇子のようである(溝口睦子著「アマテラスの誕生」)。宮中に祀っていたものを、別の場所に移すという物語に秘された意味はとても興味深いが、話が逸れるので、ご興味がおありの方は前述の書をお読みください。アマテラスの鎮座する伊勢に瓊瓊杵尊が降臨するというストーリーは自然なように思えるが、記紀編纂者はその選択をしていない。また、大和についても、天孫である瓊瓊杵尊を降臨させれば、聖地という位置づけができ、他部族の優位に立てるのだから、候補地としては有力なはずである。しかし、大和もまた降臨の地としては採用されていない。それはなぜなのか。
各地に雌伏する豪族をまとめ、旭日のごとき大唐帝国と東アジアの中で伍していかんとする、大海人皇子になったつもりで、考えてみてほしい。

日向が、国内において波風をたてることのない、安全牌だったからだ。
大和政権の祖先が日向地方からきたという筋立てが、国内の各豪族を刺激しなかった。少なくともこの点については、推定できると思われる。圧倒的な強権を持ち、誰も逆らえないような大和政権であれば、歴史の捏造も可能であったかもしれない。しかし、各地に有力豪族が雌伏している状況では、ある一地方に優位性を与えるような正史は書けないのではないか。
そのような中で、国史である日本書紀で、大和王権の祖先は日向から来たと明記してあるということは、日向については、そう記載して問題が起こらなかったか、無難であったことは、推定してよい。
では、なぜ日向が無難だったのか。
100%の嘘、作り事ではなかったからだろう。
大和王権の祖が日向から流れてきて、奈良盆地の豪族と争い入植したという昔語りが巷説に流布、あるいは各氏の古伝に、詳細はともかくとしてもおおむね記載されていたからではないか。

なあんだ、神武東遷実在説かと言われれば、その通りである。
その年代や経路については記紀の記述を鵜呑みにするものではないが、大和王権の祖が瀬戸内海を東進し、河内から奈良盆地に入ろうとしたところで長髄彦に撃退され、紀伊半島をめぐって、和歌山県熊野あたりから紀伊山地を進軍して、奈良盆地に入ったという物語、これが、ある程度確からしい昔語りとして、記紀編纂当時、伝えられていたのではないか。
有力地方なら、日向でなくても、出雲や伊勢、大和があった。また、霊峰として並ぶものない富士山、藤原氏と関係の深い常陸の国があった。記紀編纂の時代には、当然これらの国々はよく知られていたはずだが、神日本磐余彦の故郷とされていない。その意味するところを問えば、そんなあからさまな作り話を受け入れられる状況に無かったと推測できる。
神武東遷の記事を追っていくと、神日本磐余彦が日向を発し、宇佐、筑紫の岡水門(北九州)、安芸の埃宮、吉備の高島宮、難波の碕まで船で進むところは、せいぜい一文ずつのざっくりとした記述しかされていない。しかし、生駒山を越えて長髄彦との戦いが始まったところから、描写は急に詳細になる。血沸き肉躍る戦いの様子がつぶさに描かれ、映画が撮影できそうなほどだ。少なくとも紀伊半島(つまり中央豪族)には、それだけ詳細な伝承が残っていて、無視できなかったのではなかろうか。


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