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【ネタバレ注意】君たちはどう生きるかレビュー

 まず初めにこのレビューにはネタバレがあります。
 何も知らない状態で鑑賞したいという人は読まずに元いたところへ戻って下さい。











 ここまで読んでいるということはネタバレ可ということですね?
 一応鑑賞前に読んでもなんじゃこら、と思うような内容にしています。
 観た人ならあー、なるほどね、と分かると思いますが。
 苦情は一切受け付けないので悪しからず。
 それでは始めます。


1.宮﨑駿と今作

 今作品は宮﨑駿が風立ちぬ以来10年ぶりに創り上げた作品であり、まず始めに宮﨑駿が鈴木敏夫に描きあげた20分ほどの絵コンテを渡してそれを見た上で制作するかどうか決めてほしいと頼んだそうだ。
 そもそも宮﨑駿は風立ちぬで本当の引退宣言をしていたので鈴木敏夫もびっくりしたそうな。
 詳しくはインタビュー記事が出ているので気になる人は検索して読んでみて下さい。
 どうしたものかと悩んだ鈴木敏夫は宮﨑駿におもしろくないです、と伝えてお蔵入りにさせようとしたものの結局宮﨑駿を前にその言葉が出てこずやりましょうと言ってしまい制作がスタートしたのだそう。
 そしてなんやかんやあり完成、公開となったが鈴木敏夫が事前の告知を一切しないという方針をとったため公開日になっても作品を謎が包み込んでいた。
 時代背景も、設定も、主人公が男なのか女なのか、キャストすらも伏せられていた。
 唯一の手がかりとして公開されたのがこのポスターである。


  ここからはどんな物語なのか皆目見当も付かない、自分自身は鳥と少年の冒険物語で環境がどうのというメッセージ性が込められた作品なのかな?と大まかな予想図だけは描きつつ、全く何も知らないまま映画館へ向かったのである。
 観た後だから言えるが、宮﨑駿が面白いことを思いついたと本当の引退宣言を撤回して鈴木敏夫に公開するかどうか委ねるほどの作品とはこういうことかと妙に納得してしまった。
 この作品は宮﨑駿という漢がジブリという世界に社会への怒りや不条理への切なさを落とし込んできた自分と頭に浮かんでいる世界をそのまま落とし込みたい自分が常に戦っているのだ。
 要は宮﨑駿の脳内こんな感じです!というのを観客に大公開している作品である。
 こんな世界を創造する奴の脳味噌はどうなってんだろう、という興味が鑑賞中頭をもたげて画面を右往左往するキャラクター達について回ってしまったのだから宮﨑駿芸術祭がスクリーンで行われていたのと等しい。

2.君たちはどう生きるか、とは

 この作品には今までジブリが描いてきた社会へのメッセージ性はほとんどない。
 観に行く前に描いていた予想図は燃えてなくなり、そこにあるのは'''宮﨑駿'''だったのだ。
 目まぐるしく変わっていく周囲の環境に不思議と何の抵抗もなく馴染んで生きていく主人公。
 そこに葛藤や不安、恐れなどはなくただひたすら真っ直ぐに宮﨑駿ワールドを駆けていく主人公がいた。
 今までの主人公であれば自分の恐れや不安、弱さと対峙して不条理な世界でもがいていく様子が描かれることが多いが、今作に限ってはそんなことはなくいきなり連れてこられた下の世界にもまるで最初からそこにいたかのような馴染み具合であった。
 まずそこで違和感を覚える人が多いのではないだろうか?
 そして、私はアオサギと別れるシーンでこれはこうなんじゃないか?と確信めいた思いがある。
 この作品における主人公とは観客のことであり、人間界と別の世界を創造している大叔父は宮﨑駿自身なのではないか。
 そしてアオサギはジブリの世界に生きるキャラクターそのものではないだろうか。
 そう考えるとこの作品に込められた宮﨑駿の思いがふつふつと浮かんできた。
 今までは頭に浮かんだ世界をそのまま落とし込むのではなく、宮﨑駿が現社会にトレースした意識をジブリの世界に落とし込んできたと思う。
 だが、今作品ではそんなことはなく宮﨑駿が頭に浮かんだ世界を自由にそのまま描いているのだ。
 最後くらい楽しく自由に作品と過ごさせてくれよ、そんな風に語りかける宮﨑駿がいたのだ。

3.大叔父とは宮﨑駿である

 大叔父が最後、世界の構築をするという仕事を同じ血を引く主人公へ継いでほしいと頼むシーンがある。
 積まれた積み木が世界のバランスを維持しており、それは創造主にしか保てず、また造ることもできないのだ。
 たが、大叔父も余命幾許かであり造った世界も長くは持たないという状況。
 それは正しく宮﨑駿が創り上げるジブリ作品そのものではないか。
 作中で宮﨑駿はジブリを造るのはもうお終い、誰か俺と同じような考えを持つ人にこの世界を引き継いでほしい、そんな思いを吐露したのである。
 しかし主人公はこれを拒否。
 すると、今度はジブリ作品のキャラが世界を構築しようと目の前にある積み木(石)を積もうとするが思うようにバランスが取れず、積み木(自分達の世界)を破壊してしまう。
 すると大叔父によって創造された世界は破滅へと動き出す。
 大叔父は元の世界へ戻るよう主人公達へ言い残し自分自身は崩壊する世界と共に消えていった。

4.主人公とは観客である

 今作品における主人公とは、観客でもある。
 勿論それはまた別の高さから見た解釈であり、主人公はジブリ世界に生きる主人公そのものである。
 だが、今作品において主人公は作品の主人公としてだけでなく、観客自身であるという二面性を持たせているような気がした。
 人語を話すアオサギを目の前にしても小学生の子供が怖がりもせず、武器を手に取り戦いを挑む。
 なんの疑問も驚きもなくそこに人語を話すアオサギがいても当たり前のように害をなす敵として見なすのだ。
 作品の中のキャラだと考えたら違和感を覚えるが、アニメを見ていて喋るアオサギが出てきても自分達は驚いたり怖がったりはしない。
 それは、喋るアオサギが'''創造物'''であると知っているからだ。
 そして主人公は自分の新しいお母さんとなった女性を助けに下の世界へと向かう。
 そこでは屋敷に住むお世話係のお婆さんの方が慌てて行きたくないと抜け出そうとするが主人公は流されるまま状況を受け入れ向かうのだ。
 向かった先でペリカンに襲われても、いきなり船に乗って気味の悪い魚を目にしても、自分がいた世界とは違うことをいくつも目の当たりにしてもただひたすらに突き進んでいくのだ。
 まるでこの物語には終わりがあることを知っているかのように。
 そしてラスト、友達となったアオサギから主人公は
 「お前あの世界のこと覚えているのか?」
 「何か持ってきてないだろうな?」
 「まあ時期に段々と忘れていくさ」
 「じゃあな、友達」
 というようなセリフを投げかけられる。(一言一句あっては無いと思うがこんなセリフだった)
 作品の中で物語の終わりに投げかけるセリフとしてはオーソドックスなものだが、今までの主人公の挙動を考え主人公を観客として宮﨑駿がジブリ世界に落とし込んだのだとしたら、このセリフこそが宮﨑駿がジブリキャラを通じて伝えたかった我々への最後のメッセージだったのかもしれない。
 あの世界のこと、とは紛れもなく宮﨑駿が創造してきた世界であり、アニメーションの世界とはじきに忘れられていくものでもあり、そしてそんな世界を見ていた我々にジブリのキャラがじゃあな、と別れの言葉を残す中で友達と表現するのもまた粋に感じたものだ。
 そんな考察を頭に浮かべながら主人公がアオサギのことを友達だと言った時のアオサギの表情を思い出すと妙に可愛らしくて見えてくる。

ただのハゲたおっさんなのにね。

5.アオサギとはジブリキャラそのものである

 主人公を連れ去ろうとし、一時は敵対していた2人も一緒に冒険をするうちに絆が芽生え互いに協力し合うようになる。
 宮﨑駿は世界を創造し、キャラクターを動かし、ストーリーにしていく。
 そして完成したキャラクターは観客と共に世界を歩み続ける。
 ジブリ映画という世界に没入した我々を案内するのは彼らキャラクターの役目なのだ。
 そんな彼らと観客は相容れないこともあり、また共鳴し感情を揺さぶられることもある。
 キャラクターとは我々の案内人でもあり友人でもあり敵でもあるのだ。
 そんな役をまとめてやっていたのが、今作品のアオサギである。
 このアオサギはポスターにもなっており意味深であるが、我々の案内人であり友人であると思えば顔として出てきたのも納得がいく。
 なぜ主人公ではなかったのか?
 それはその世界に観客として我々が踏み込む前だからであり、最初に見る今作品の顔としては案内人のアオサギが適役だったからだろう。
 そして最後、我々にアオサギは前述した通りのセリフを投げかける。
 宮﨑駿が案内人のキャラクターを通して伝えたかった思い、そしてキャラクター自身の我々への最後の言葉。
 正しくジブリ世界に生きるキャラクターらしいキャラクターであった。

6.扉がつなぐ宮﨑駿ワールドと人間界

 今作品の中で主人公が元いた世界に戻る方法が一つあった。
 それは元いた世界時間と繋がっている扉を開けてドアノブを離すこと。
 そうすると扉がどこにあるのか分からなくなりもう2度と異なる世界へは行けなくなるのだ。
 そして宮﨑駿ワールドにいた生き物達は人間界に入ると人間界と同じ姿になる。
 セキセイインコは刃物を持って人間を追いかけ回して食べたりしないし、ペリカンだって襲ってこなければ気味の悪い魚もいないのだ。
 これは正しく映画と現実世界を現しているのではないかと思う。
 それぞれの世界へと戻るにはそれぞれ決まったドアを開けなければならない。
 つまり、元いた世界以外には行けないしそのドアの先の世界は何も変わらないいつも通りの世界なのだ。
 この扉というのが映画館のドアなのか、現実へ戻らなければいけないという心のドアなのか、はたまた違うことを書き表しているのかは定かではない。
 だが、この扉という描写自体が我々と宮﨑駿ワールドを繋ぐ唯一の線である。
 その扉を途中で離そうともしない主人公、お父さんが叫びながら主人公の元へ駆け寄るが冷静にまだ夏子さん(新しいお母さん)を助けていないと不可思議な世界へ戻っていくのだ。
 そして最後にはドアをくぐり無事お父さんと再会、いつも通りの日常へと戻っていくのであった。
 丸で映画の物語が終わり、現実世界へと戻っていくかのように。

7.終わりに

 宮﨑駿は今作で自分の描きたい世界をそのまま創造したにすぎないのではないか?と言ったが私自身このnoteを特別整理した後に書いているとかではないので全く、人のことは言えないのだがそれでも宮﨑駿ワールドは楽しかった。
 うだうだと考察みたいなことを並べたが是非行って観て感じてほしいなと思う。
 こんなめちゃくちゃなレビューはないと自分でも思うが、このnoteを読んであれはどういうことなんだ?とモヤっとしている人の助けに繋がればいいかな、とも思う。
 勿論、上記の内容は私が観た後での感想なので絶対にこうだ!というわけではなくこういつもりで描いたんだろうな〜という予想図なので悪しからず。
 そして、おそらく君たちはどう生きるかに対する答えはない人がほとんどだと思う。
 だけど、この作品で大きく感じた一つの意志は
 「自分の世界は自分で創造して生きてみろ」
 という宮﨑駿だった。
 説教臭くもなければ、ノスタルジーに浸る作品でも無い、ただそこに純粋な宮﨑駿がいる。
 現社会に意識をトレースしていない、己がままに創造した宮﨑駿の世界がそこにあった。
 稚拙な考察で拙文につき読まれたとしても何言ってんだこいつはと呆れられるかもしれない。
 でも、それでいいと思う。
 受け取った作品の形はそれぞれにあり、それぞれの中でまた作品が出来上がっていくのだから。

 さて、宮﨑駿は同名の小説作品から今作のタイトルにお借りしたと言っていたので、ここで私もお借りして宮﨑駿にタイトルをつけたいと思う。

 '''裸の王様'''

 やっと裸になった宮﨑駿を見られた気がしたので。

 じゃあな、友達。

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